幽霊の立ち寄り
愛理が語る。
川の向こうに 白い船が浮かぶとき
私たちは また「思い出せない」のね
どこで生まれたか
いつ生まれたか
名札のない魂は 桟橋で立ち尽くすばかり
乗船名簿に 空欄があると
その船には 乗れないの
「名前を書くには 思い出さなくちゃ」
でも私たち、肝心なとこが ぽっかり抜けてる
人にはみんな ソウルメイトがいて
どの船団に入るか 生まれる前から決まってるんだって
でも、相手の顔も 合図の言葉も
霧の中に隠れて見えない
だから 今日も「ビオレ」に来る
駅でもなく 港でもなく
どこかの待合室みたいな場所
コーヒーの香りと、微温い光に包まれたところ
私たちは椅子に座り
窓の外を流れる川を眺めながら
記憶のかけらが ふっと戻るのを
ただ 静かに 待っているのよ
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ここはあの世行きの船に乗るために一時休憩する店でもあった。
たとえば、こんな幽霊が立ち寄った。
ある晩、ひとりの女が店のドアをくぐった。濡れたスーツにヒールを履いたまま、手にはまだ黒光りするスマートフォンを握っていた。カウンターの椅子に腰掛けると、女は「アイスコーヒー、氷なしで」と注文した。氷なしとは珍しいと思ったが、幸枝は無言で淹れた。
「電波、届いてるかしら……」女は虚空を見つめながらスマホをいじっていた。どうやら、自分がもう死んでいることに気づいていない。
幸枝が「どちらから?」と訊ねると、女はこう答えた。
「丸の内です。会議中に倒れちゃって。でも、まだ送ってない報告書が三つあるのよ。
まさか死んでも未送信が残るなんて……」と苦笑いを浮かべた。
そのとき、店の奥から「未送信の報告書は三途の川を渡る時、石になって沈むぞ」という声が聞こえた。
誰が言ったのかはわからないが、店の誰もが黙った。
やがて女は溜息をつき、スマホをそっとカウンターの上に置いた。
「じゃあ、渡るために乗船しようかしら」と立ち上がった時、スマホの画面がふっと暗くなった。
もう通知もバイブも、何も響かない。
幸枝はそのスマホを裏返して、そっと小さな引き出しにしまった。
中には他にも似たような「未練の品々」が、ひっそりと並んでいた。
ある夜、ドアがそっと開いて、ひとりの女が入ってきた。ベレー帽にトレンチコート、手には年季の入ったトートバッグを提げている。年齢は五十代後半だろうか。どこか古い映画館の空気をまとっていた。
彼女はカウンターに腰掛け、「ホットココアを。マシュマロはひとつだけで」と注文した。
幸枝は黙って頷き、やや懐かしいやり方でココアを温め始める。
女はバッグから何かを取り出した。それは、色褪せた映画のパンフレットだった。昭和の末に公開された、名画と呼ばれるには少し早すぎた作品のものだ。
「もう一度だけ、あの映画を大きなスクリーンで観たかったのよ」女は静かに言った。「あのラストシーン……主演の彼が、駅のホームで彼女を見送るあの瞬間。あれだけで、私、何年も生きていけた」
ユキエは差し出されたパンフレットに目を落とした。紙の端はすり切れ、主演俳優の名前の下に、小さな文字で「特別上映会 来場者プレゼント」と書かれていた。
「じゃあ、最後に観たんですね」
「ええ。でも……会場のシートに座ったまま、目が覚めなかったの。エンドロールが終わる前に」
そのとき、店の奥の棚にあった古いラジオから、偶然にもその映画の主題歌が流れた。女はうっすらと微笑んだ。ココアの湯気が、どこか懐かしいフィルムのようにゆらゆらと揺れていた。
やがて彼女は、パンフレットを丁寧に畳んでテーブルに置いた。「ありがとう。これでやっと、席を立てるわ」
そして、何事もなかったかのようにドアを開け、外の闇の中へと消えていった。
幸枝はパンフレットを受け取り、店の奥にある小さな箱にそっと収めた。その中には、時代ごとの「別れた映画たち」が眠っていた。