試し書き 完
映画『カサブランカ』は、誰もが「完成せずにお蔵入りになった」と思っていた作品でした。なにしろ、タイトルも決まらないまま撮影が終了し、編集が終わってからようやく『カサブランカ』という題名がついたのです。
まさかその映画がアカデミー賞を受賞し、アメリカの「国宝映画」と呼ばれるようになり、さらにワーナー・ブラザースの象徴とも言える存在になるとは、誰が想像したでしょうか。
主演のリックを演じた“ボギー”ことハンフリー・ボガートは、のちに「アメリカ映画史上最高の男優」に選ばれることになります。
一方、ヒロインのイングリッド・バーグマンは、この映画が公開されたことも、賞を取ったことも知らなかったそうです。ずいぶん時が経ってからロンドンでの再上映に招かれ、初めて自作を観たバーグマンは、「初めて観ました。いい映画ですね」と言ったといいます。冗談ではなく、本音だったのでしょう。
私自身も、あの映画はお蔵入りになったと思っていました。
夫が亡くなったあと、生まれたばかりのサキを連れて、私はニューヨークに渡りました。カリフォルニアは、当時の日系人にとっては地獄のような場所だったからです。
その間、ホリー──あの堀井にサキの世話を頼んで、私はニューヨークの映画界で脚本助手として働いていました。ホリーは『ティファニーで朝食を』のモデルで、実在する女性です。国吉が彼女の肖像を描いており、その絵のいくつかはニューヨークの美術館に所蔵されています。
ホリーは謎の多い日系女性で、私は彼女がユダヤ系のスパイだったのではないかと思っています。ただし、スパイであることがばれたら、それで終わりですが。
そんな中、兄が「アメリカは信用できない」と言って日本に戻り、銀座七丁目に「東京ジョー」という店を開いていることを知りました。ホリーも日本に行くというので、私も行くことに決めました。
実のところ、私自身も、いつ強制収容所に入れられるか分からない身でした。ナチス・ドイツと同じことをするアメリカ政府は、もう信用できないと感じていたのです。