第8章:ハイペリオンの影
ライナの言葉が途切れたあと、部屋にしばしの沈黙が流れていた。
ノアは少し身を乗り出して言う。
「兄さんは……どうして、あんなに母さんに厳しいんだと思う?」
ライナは、少しだけ考えるように目を伏せる。
「アッシュはね、あの事故のあと、“感情を殺す”ことを覚えたのよ。
人を信じず、頼らず、泣きもしない。ただ、自分がすべきことだけを、黙って続ける子になった。
けれどそれは、強さじゃなくて、喪失に耐えるための鎧だった」
エレナがそっと目を伏せた。
胸の奥で、あのときの泣き声がまた揺らぐ。
ライナは続けた。
「あなたが現れたことで、その鎧にヒビが入ったの。
でも本人は、それを認めたくない。
“こんなものに揺らぐなんて、自分はまだ未熟なんだ”って、きっとそう思ってる」
「……」
エレナは答えなかった。ただ、小さく頷くだけだった。
そのとき、背後の扉がノックもなく開いた。
現れたのはグレーの作業服を着た女性──
「おっと、割り込んで悪いわね。話は続けてて大丈夫よ。
……ただ、ひとつだけ気になることがあって」
ライナが顔を上げる。「イナ」
「紹介が遅れたわね。私はイナ・ミレス。クラディアでセキュリティ関連を任されてる。
かつてはヴァルネアのAI技術部門にいた」
エレナがわずかに目を見開く。
「あなたは……私のことを?」
「もちろん知ってる。データで、だけどね。
あなたの記録、動作ログ、振る舞いパターン。
ELANAプロジェクトで使われてた意識フレームの試験記録……何度も見た」
イナはふと足を止め、わずかに顔を寄せてエレナをまじまじと見つめた。
その目には、専門家としての好奇心と、少しの畏怖が混ざっている。
「実物を見たのは初めてだけど……本当に、人間と見間違えるほどに精巧な作りね」
彼女の視線は、エレナの肌の質感や瞬き、呼吸のタイミングにまで注がれていた。
イナは一歩引いて、ノアを見た。
「それに君──ノア。アッシュと連絡を取っていた記録も、断片的に確認したことがある。
彼がどこを探っていたのかも、ある程度は把握してる」
ノアが身体を起こす。
「どこを……?」
「君たちのいた第6構成区じゃない。
アッシュが何度もアクセスしていたのは、“その先”──第1構成区や第7構成区の記録」
ノアがわずかに息を止める。
「でも、なんで……」
「それがわかっていれば、私も今ここにはいないわ」
イナは肩をすくめた。「ただ、何かを掴んだのは間違いない。
ヴァルネアのログでは得られなかった情報。
彼は……“本当の敵”を見つけたのかもしれない」
ライナが静かに補足する。
「アッシュは、ヴァルネアそのものを敵と見てるわけじゃない。
むしろ、“ヴァルネアすら恐れている何か”を見てしまったのかもしれない。
私はそう感じてる」
「……“何か”って……?」
ノアの問いに、イナはふと視線を天井に向け、ひとつ息を吐くように言った。
「……私がいたヴァルネアの中でも、誰も口にしたがらない名前があった。
それはまるで、触れた瞬間に何かを失うみたいに、忌避されてた」
ノアが眉をひそめて小さく訊ねる。
「何の話……?」
イナはわずかに目を細めて、ライナを一瞥した。
そしてライナが静かに口を開いた。
「──ハイペリオンよ」
その名前が落ちた瞬間、部屋の空気が沈んだ。
わずかに、温度が下がったようにすら感じられる。
ライナは、ゆっくりと言葉を続けた。
「環境再生、支援、インフラ再構築、防衛──建前は立派よ。
でも、私たちは知っている。
彼らの本当の目的は、“人間の選別”──感情も、非効率も、“誤差”と見なす存在を排除すること」
「それと、ヴァルネアを凌ぐ規模の兵器工場を第7構成区に持ってるって話」
「彼らはね、“理想の社会”を作ろうとしてるの。
でもその理想に、私たちのような人間の弱さや迷いは──必要とされていない」
エレナは言葉を失ったまま、目を閉じる。
ハイペリオン。
それはただの企業名ではない。
──かつて自分が目指した未来とは、まるで正反対の存在。
この街の外で、それは確かに動いている。
静かに。だが確実に。