第7章:語られなかった母
「──腹も満たされたところだし、クラディアの重要人物に会ってもらうぞ」
食後の静かな余韻の中、セオが椅子を引いて立ち上がった。
その言葉に、モラズ・キッチンの空気がほんの少しだけ引き締まる。
「大丈夫。緊張しなくていい」
モラがシチューの鍋を拭きながら、微笑んで言う。
「でも、その人の言葉には、よく耳を傾けるといいよ」
店を出て歩くこと数分。街の中心部に近づくほど、周囲の雰囲気が微かに変わっていった。
石畳は整えられ、壁にはセキュリティパネルらしきものが簡易的に設置されている。
ただの“避難所”ではなく、ここが一つの“自治”として機能していることが見て取れた。
「……こっちだ」
セオが案内したのは、木造の建物の一室。
中には複数の端末と紙資料、手描きの地図、補給線のルート。
それはまるで、戦わない“市民”たちによる指揮所のようだった。
その中央に、彼女はいた。
端正な姿勢。理知的な瞳。
肩で切り揃えられた髪、濃紺の上着と腰のベルトポーチ。
ひと目で分かる、誰かの“上に立つ”人間の風格。
「──エレナとノア、ようこそ、クラディアへ」
その声は澄んでいて、どこか冷たさすら感じるほどに理知的だった。
「私はライナ・グレイヴ。クラディアの防衛と交渉管理を任されている」
ノアが自然に背筋を正す。エレナも思わず姿勢を正していた。
「ノアの話は聞いたことがあるわ。……アッシュから」
その名に、エレナがわずかに反応する。
ライナはそれに気づきつつ、視線をゆっくりとエレナに移した。
「でも……あなたは?」
そこで、セオが口を挟んだ。
「驚くなよ、ライナ。この2人──親子なんだとよ」
「──親子?」
ライナの声が一瞬だけ高くなった。
「ということは……あなたが……アッシュの母親なの?」
「そうよ」
エレナが静かに答えると、ライナはしばらく言葉を失ったように視線を宙に浮かせた。
「……でも、年齢が……」
「この人は、僕の“母”なんです」
ノアが代わって話し始める。
「僕が5歳のとき、事故があった。母と僕、2人とも巻き込まれて……
母は体を失い、意識だけをAIアンドロイドにアップロードされたんです。
それが、今の母──エレナ・クロノヴァ」
ライナは息を呑む。
セオが驚いたように口を挟んだ。
「でもさっき、モラのとこで普通に食ってたぞ? パンとスープ」
「はい、それも可能です。咀嚼、嚥下、消化機能──人間の身体が完全に再現されてるんです。
栄養は必要ないのですが、“人間として過ごすため”の設計なんです」
その言葉の直後、エレナがふっと微笑んで口を添える。
「……でも、お腹はすくのよ?」
そのひと言に、一瞬だけ場の空気がほどけるような感覚が走った。
ライナも、セオも、微かに目を見開き、そして静かに笑みをこぼした。
それはまさに、“人間”だった。
ライナが深く息を吐く。
「……だとしたら。ヴァルネアが手放したくない理由も、納得がいくわね」
彼女はしばらく考えるように視線を落とし、それから、静かに口を開いた。
「アッシュは……たくさんのことを話してくれた。でも、母親のことは話さなかった」
「……そうなんだ」
エレナが目を伏せる。
「ノアのことは“弟”として、何度も話していた。
“自分にできなかったことをやれる子だ”って。……その分、いつも自分を責めていた」
「兄さんが……?」
ノアが思わず声を漏らす。
ライナは、少しだけ柔らかな表情を浮かべた。
「アッシュってね、昔はとても優しかったの。
私がクラディアに来たばかりの頃─、一人で震えてたとき、何も言わずに毛布を差し出してくれたのが、彼だったの」
「不器用だったけど、人の痛みに敏感な人だった。
母親を失ったことも、弟を守らなければならないことも、ずっと背負い込んで……でも、本当はずっと、誰かに甘えたかったんだと思う」
その言葉に、エレナの胸がきゅっと締め付けられた。
「だからこそ、ヴァルネアもアッシュも……何かが交差し始めてる。
あなたが現れたことで、この街の空気も、彼の心も……少しずつ、動いている気がする」
静かな部屋の中、誰も言葉を発さなかった。
しかし、それぞれの心に宿る“何か”が確かに揺れていた。
クラディアという街の深部へ、物語はさらに踏み込んでいく──。