第2章:それでも、手を伸ばすなら
朝焼けとも夕暮れともつかない、ぼやけた光が天井の亀裂から差し込んでいた。
冷えきったコンクリートの床と壁は、時代の境界線のように無機質で、静かだった。
ホールの一角。
そこには、3人だけが残されていた──アッシュ、エレナ、ノア。
緊張の糸がわずかに緩んだ空気の中、アッシュが背を向けるように言った。
「……ここで終わりだ」
エレナは、少しだけ歩み寄りながら聞き返す。
「え……?」
「お前たちを、これ以上は連れては行けない。
俺は……レジスタンスのリーダーだ。仲間の前で、母親と弟に手を貸すわけにはいかねぇ」
その言葉に、ノアが眉をひそめる。
アッシュは振り返らず、低く続けた。
「俺たちの目的は変わらない。
ヴァルネアのシステムを破壊する。AIを破壊する。
あの“共生”とやらに、何人の命と時間が奪われたと思ってる」
彼の視線が、ホールの奥──警備のために立つ仲間たちの方へ向いた。
少しの間だけ、沈黙が続く。
「……アイツらも、そうだ。
みんな大切なものを奪われた。
AIに“不要”と切り捨てられた者もいるし、ここで生まれて“外の世界”を知らない者もいる。
……これはたぶん、大人のエゴなんだろうな。
でも──アイツらを、もうAIが支配する世界になんか行かせたくないんだよ」
その言葉には、燃えるような怒りと、どうしようもない優しさが混ざっていた。
「でも、ヴァルネアは──」ノアが言いかける。
「変わろうとしてる? 母さんの理想を継ごうとしてる?
知ってるさ、そんな話くらい」
アッシュの声には怒りだけでなく、深い疲弊が滲んでいた。
「けどな……知ってるからって、許せるもんじゃねぇんだよ。
母親をこんな姿にした政府。
その技術を受け継ぎ、“共生”なんて言葉で正当化してるヴァルネア。
俺にとっては──全部、同じだ」
エレナが、静かに一歩前に出る。
「アッシュ……本気で戦えば、あなた……」
「殺されるかもしれない?」アッシュが口を挟んだ。
そして、少しだけ笑った。痛みを押し殺すような笑みだった。
「分かってるさ。
でもそれでも──俺は、俺やアイツらの失われた時間を、取り戻す」
ノアが、叫ぶように言う。
「兄さん、お願いだ! それでも……それでも生きて──!」
アッシュはほんの一瞬だけ目を伏せた。
しかしその声に答えず、静かに言い残す。
「ノア……ママを頼んだ。
ここから先は、俺の戦いだ」
ホールの奥。
旧型のセキュリティ扉が、低く唸るような音を立てて開き始めた。
レジスタンスの兵士が無言で操作パネルを叩き、退出の準備を進めている。
エレナがアッシュに駆け寄ろうとする。
「アッシュ!」
「行け」
アッシュは、振り向かないまま言い放つ。
「お前らは、ここから出ろ。
ここは、お前らの来るような場所じゃない。
二度と戻って来るな。
俺たちは……もう違う場所にいる」
扉の向こうから、風の音が吹き込んだ。
コンクリートの床を這うように、冷たい空気が足元を撫でていく。
その風が吹き抜ける直前──アッシュが、ふと振り返った。
目が合った。
初めて、真正面から。
そして、絞るような声で──
「……愛してるよ、ママ」
涙が、頬をつたっていた。
その目は、あの時の少年の目だった。
エレナが駆け出しながら叫ぶ。
「アッシュ! 待って!」
だが──
セキュリティ扉が、無慈悲な音を立てて閉じる。
重く、冷たく。
そのすべてを隔てるように。
「……アッシュ……!」
エレナの声が、閉じた扉の前で静かに震えた。