第1章:君は誰を裁くのか
特別区セントラムの中央ホール。
崩れかけたドーム状の天井から、わずかな自然光が差し込んでいた。
壁には過去の共生プロジェクトの残骸──人間とAIが手を取り合うポスターが、風化したまま貼られている。
その中心に立つ男──アッシュは、無言のまま、真正面からエレナを見据えていた。
「……ずいぶん、精巧に作ったもんだな。
声も、仕草も……まるで“あの頃の母親”そっくりだ」
その声に懐かしさはなかった。
あるのは、皮肉とも嫌悪ともつかぬ、冷えた響きだけだった。
エレナが一歩、踏み出そうとする。
しかしその動きを、アッシュの声が鋭く断ち切る。
「来るな。アンタは“あの人”じゃない。
ただ、母親に似せて作られた機械だ」
その言葉に、ノアの表情がわずかに揺れる。
だがエレナは、目をそらさず、静かに返した。
「私は……記憶を失っていた。
でも今は違う。ノアと……“あなた”のおかげで、少しずつ思い出せているの」
「思い出したからって、何が変わる?」
アッシュの声が上ずる。
感情が、皮膚の下で暴れているのが見えるようだった。
「……あの日、俺は泣いた。
どれだけ叫んでも、誰も来なかった。
母さんがいなくなって、父さんも壊れて、ノアまで“あっち側”に行ってしまった──
俺は、ずっと……ずっと、ひとりだったんだ!」
ノアが、口を開きかけた。
「アッシュ……」
だがその名を呼ぶ声を、アッシュの怒鳴り声が遮る。
「お前は黙ってろ、ノア!
どこの機関にいたかなんて関係ねぇ……結局、“コイツ”を外から眺めてただけだろ!」
「違う。俺は──」
「違わねぇよ。
お前も……コイツも……どっちも“俺から家族を奪った側の人間”だ」
ノアが言葉を失い、空気が張りつめた。
沈黙の中、エレナは一歩、ふたたび近づいた。
「アッシュ。私が“本物”かどうかなんて、どうでもいい。
でも私は──あなたを、あのとき守れなかったことを……心の底から悔やんでる。
何も覚えていなかったのに、それだけは──ずっと胸の奥にあったのよ」
アッシュは俯いたまま、肩をわずかに震わせた。
目には涙はない。
けれど、沈黙があまりにも長く続いた。
エレナは、ゆっくりと息を吸い込む。
「……夢の中で、泣き声がしたの。
誰かが、私を呼ぶ声。
最初はずっと、ノアの声だと思ってた。小さかったノアが、私を呼んでるんだって……
でも違うのよね」
彼女の視線が、まっすぐアッシュへと向かう。
「……あの泣き声は、あなた……アッシュ、あなたの声だったのね」
アッシュの肩がピクリと揺れる。
その名を、母親の声で呼ばれた瞬間。
それだけで、あの日の記憶が、胸の奥で疼いた。
「……泣いてなんか、いない」
「そう。あなたは……あの日から、泣いていない。
……ずっと、泣くこともさえも許されなかったのね。自分はずっと強くあろうとした……辛かったね、アッシュ」
アッシュは答えなかった。
ただ、静かに視線を逸らす。
ノアもまた、そっと目を伏せていた。
兄の背中を、弟としてではなく、“同じ痛みを背負った人間”として見ていた。
エレナは、震える手をそっと差し出す。
「それでも、私は……こうして手を伸ばす。
あなたに触れられなくてもいい。
“母親”としてじゃなくてもいい。
それでも私は──あなたを、ひとりにしたくないの」
アッシュの視線が、ゆっくりとその手に落ちる。
ほんの一瞬。
彼の手が、反射のようにわずかに動いた。
まるで、“伸ばしそうになる”ように。
しかし、指先は空を掴む前に止まる。
そのまま、手は動かず。
振り払うことも、もうできなかった。
静かに、かすれるような声が、アッシュの口から零れた。
「……もし、アンタが本当に“あの人”だったなら……
どうして、あのとき、俺を置いていったんだよ……母さん……」
その最後の一言だけが──
彼の中に確かに生きていた、“あの人”を呼ぶ声だった。