第7話:記録されぬ谷・4
空が灰に染まった。
ヴァルマーの背後から現れたのは、輪郭の曖昧な死者たち。
首がない者、手足のない者、顔が存在しない者──
“記録されることなく死んだ”という事実そのものが、彼らを形の不明瞭な恐怖へと変えていた。
「“記録されなかった”命は、輪郭を持たない」
「されど、情報の断片が漂えば──輪郭は再構築できる」
エゼキエルは静かに呟き、懐から一枚の紙片を取り出した。
「──“戦場筆録者ランデル・カーター”。記録番号『残滓・第七十二』」
「死者三十六体を一筆で封じた男。その術式──“鎖筆封陣”」
彼の前に現れたのは、一振りの筆と、空中に描かれる鎖の式。
それが光のような速度で、死者の群れの脚を結び、縛り、地面へと引きずり倒していく。
ギィイン……ギィイ……ガチャン!
聞いたことのない、重く濁った音。
まるで魂そのものを打ち付けるかのような振動が、空間に広がった。
「貴様……再現しているのか……記録上、術者の“心の動き”すら……!」
「魂は、心で動く。
ならば“心の演算痕”さえ拾えば──再現は可能だ」
ヴァルマーが歯を食いしばる。
死者たちが動きを止める。
だが、すぐにその体から黒い霧があふれ、“別の何か”に変わっていく。
肉体が崩れ、空間に吸われ、闇の濃度が増していく。
それはもはや死者ではない。“死の構造”そのものが塗り替えられていく感覚。
「君の演算が何であろうと、世界の“記憶”が失われていくのを止めることはできない」
「これは否定の儀式。私はこの谷を、“記憶喪失の世界”へ変えるのだ」
霧が膨張し、井戸から空へと伸びる黒柱となる。
ミリィが後退しながら叫ぶ。
「空が、飲み込まれていく──!」
その瞬間──
エゼキエルが地に指をついた。
「魂式演算──
“戦術連鎖:五重演算”」
空間に五重の魔術陣が展開される。
それぞれが異なる色彩、異なる記録、異なる“死者”の痕跡を帯びていた。
「第一演算:“降魔の矢”──都市守備兵アラント・バウアー」
「第二演算:“空断の紐”──絞首術師レメス・カノン」
「第三演算:“重奏の鉄棘”──楽団指揮官ファロス・グレイ」
「第四演算:“帳の檻”──夜番修道士イレーナ」
「第五演算──“無名の母”」
ミリィの目に、五つの術式が連動して動く様が映る。
音もなく、ただ光だけが流れていく。
一つ一つが“死の記録”であり、“生きた誰かの最期”であり、
エゼキエルの掌から放たれたのは、五つの“死者の意思”だった。
「記録せよ──その“死”に意味があると、証明するために」
術式が発動する。
矢が降り、紐が締め、棘が空間を裂き、帳が霧を封じ、
そして──無名の母の術式が、“記録を持たぬ存在”の輪郭を焼き出す。
「が──ぁ、ああああああッ!!」
ヴァルマーの叫びが、空に響いた。
霧が引き裂かれ、井戸の空間が閉じていく。
“記録されぬ死”たちが霧散し、エゼキエルの足元に広がる陣だけが、静かに光を灯していた。
彼は、記録した。
死を、名を、意思を、全てを──記録として。
「……“死者に名を与えること”は、
“死があったことを否定させないための行為”だ」
霧が完全に消える。
ヴァルマーの姿も、もうなかった。
ただ、残されたのは空に刻まれた式の残滓と、
井戸の底に、“一滴の涙”のように澄んだ水が揺れていた。
ミリィはその光景を見つめ、ぽつりと呟いた。
「……きっと、救われたのかな」
「ああ」
「記録されぬ死は、“生”の否定になる」
「それだけは、絶対に許さない」
戦術連鎖:五重演算の詠唱、相当悩みました。
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