第4話:記録されぬ谷・1
コルヴァの谷に近づくにつれ、道は険しさを増していった。
斜面を削るように伸びた細道。両脇には灰色の岩肌が露出し、倒木や崩れかけた塀が散在している。
けれど、そのどれもが古びておらず、“最近まで誰かが整備していた”痕跡だけがあった。
「なんだか、静かすぎるね……」
ミリィがぽつりと呟いた。
谷の入り口に立った瞬間、その空気は明らかに違っていた。
畑はあった。家もあった。洗濯物が干されたままの物干し台も、囲炉裏から漏れる煙も。
なのに、人の気配だけがなかった。
動物も鳴かず、風の音すら耳に届かない。
そこにあるのは、“人がいた痕跡”だけで構成された町だった。
「……ここ、誰もいないの?」
「“気配”がないだけだ」
「存在そのものが消えたわけではない。情報の痕跡は残っている」
そう言って、エゼキエルは一軒の家に近づく。
扉は施錠されていなかった。ぎい、と軋む音を立てて開いた中には、木の椅子が倒れ、パンくずが皿の上に残っていた。
「食事の最中だったみたい……」
ミリィが足音を忍ばせるように部屋を見回す。
エゼキエルは黙って、テーブルの上にあったナイフの柄に指を触れた。
そこに、ほんのわずかな魔術式を流し込む。
すると──
空気が、かすかに震えた。
壁の向こうに、誰かの叫びが一瞬だけ聞こえた気がした。
「ッ……なに、今の……」
「断片だ。
感情の強い記憶ほど、物質に深く刻まれる。
このナイフには、最後に使われた瞬間の“恐怖”が染み込んでいる」
「だとすると、この家の者は……」
ミリィが言葉を詰まらせる。
エゼキエルは答えない。
ただ、彼の眼差しはもう、次の調査対象へと移っていた。
そのときだった。
──カラン、と何かが転がる音。
音のした方を見やると、小さな路地の奥に、
黒いコートの裾のようなものが一瞬、角を曲がって消えた。
「誰かいた……!」
ミリィが駆け出そうとする。
だがエゼキエルが、無言で手を伸ばし、その肩を制した。
「追うな。……まだこの地の“死”は形をとっていない」
「不用意に関われば、情報が壊れる」
ミリィはうつむいた。
誰かがいた。確かにいた。なのに、近づいてはいけない──
「でも……生きてる人だったら……」
「“記録されていない生”もまた、異常だ」
「記録の隙間に潜む存在は、時に“死”よりも危うい」
その言葉が、霧のようにミリィの心に沈んでいく。
──“死”を記録する術者にとって、“生”すらも等しく情報でしかない。
町にはまだ、多くの家が残されていた。
誰もいないのに、食器が、道具が、椅子が、人の生活の途中で止まっている。
まるで、時だけが歪に空白を作り、
“何か”がその隙間をすり抜けていったかのように。
「次は、井戸の底を視る」
エゼキエルはそう言って、静かに歩き出した。
そして、ミリィはその背を追いながら気づく。
──この町には、“死体”が一つもない。
それが、最もおかしいのだと。
エゼキエルの旅はまだ始まったばかりですが、
「評価」「ブックマーク」「感想」
を頂けると幸甚に存じます。
よろしくお願いします!!