にこにこまあちゃん
今は中学生の子どもに聞いても、当時のことは覚えていないと言う。
思い返しても背筋が凍る。
子どもが小学一年生になった年の、夏の終わりぐらいの話だ。
男の子の子どもが産まれ、夫と相談して子育てに良い環境の町に住み移って六年。
夫婦仲も良く、たまにいざこざはあれど順風満帆な結婚生活を送っていた。
子どもも小学校に通い始めた当初は、初めての環境に戸惑いつつも、幼稚園の時からのお友達も沢山いたみたいで、毎日楽しそうだった。
全国のママが首を振って頷くと思うが、男の子は制御不能な生き物だ。
学校で配られるプリントを私に渡してくれることは無いし、脱いだ服も散らかりっぱなし。
叱ると泣いて拗ねて、機嫌が治るまで何も話さなくなったりする。
学校や友達の話を私から聞いても「知らない」「分からない」と言ってまともに会話をしてくれない。
ただ、気分がのってくれた時は自分から結構話してくれるものだ。
男の子の子どもを持つママ友の話を聞いても、どこも似たような波瀾万丈な子育て生活を送っているみたいで、親近感からか仲の良いママ友が結構いる。
女の子は小さくてもしっかりと言葉を理解して行動してくれるみたいで、子育ての負担が多少軽いとの話も聞いたりする。
本筋から逸れてしまったが、夏休みが終わってまもない熱帯夜の日だったと思う。
夜ご飯を子どもと二人で食べていた時に、珍しく子どもが学校の出来事について話し始めた。
私の子「今日の給食で牛乳を三本も飲んだよ!」
私「へぇ〜すごいじゃん!」
私の子「おやすみの人がいて、牛乳をじゃんけんでもらった!」
おやすみした人の分の余った牛乳をじゃんけんして勝ち取った、ということだろう。
私「じゃんけん強いね〜」
私の子「うん!それで、まあちゃんに牛乳あげようとしたけどいらないって言ったからぼくがのんだ!でも、すごいにこにこしてた」
まあちゃん。
幼稚園に通ってた時は聞いたことがない名前だ。きっと、小学校で出来た新しいお友達だろう。
別の日、二人でお風呂に入っていた時に再びまあちゃんの話をし始めた。
私の子「まあちゃんがお絵かきしてたのに、なんか先生におこられた。ぼくもるいくんもちがうのに」
私「まあちゃんがお絵かきしちゃいけないところにお絵かきしてたの?」
私の子「そう!」
まあちゃんが描いてはいけないところにお絵かきしていたのに、勘違いした先生が子どもとるいくんを叱った、ということだろう。
るいくんとは、幼稚園の頃から私の子どもと仲が良いお友達で、私はるいくんママと仲が良い。
その後も週に数回程度のペースでまあちゃんの話を聞くことがあった。
他のお友達の話も聞くので、特別まあちゃんの印象が強かった訳ではなく、クラスメイトの話という括りで聞いていた。
夕方までのパートが終わり、スーパーで買い物をしていたところ、お肉コーナーでお肉を選ぶるいくんママの姿を見つける。
るいくんママと当たり障りのない話題をする中、前に子どもから聞いた、「お絵かきしていないのに先生に怒られた」話題へと移っていった。
るいママ「この前、うちのるいくんから聞いたんですけど、まあちゃんがお絵かきしたのに先生に怒られたって話、聞きました?」
私「あ〜聞きました。まあちゃんがお絵かきしちゃいけないところにお絵かきしてたってうちの子が言ってました」
るいママ「そうそうそう、黒板に落書きしてたらしいよ。で、まあちゃんがどんな子なのか知らなかったから、るいくんに聞いてみたんですよ。そしたら『にこにこしてる』って言ってて、フルネームを聞いたら『知らない』らしいんですよ」
私「フルネームを知らないって、まあ小学一年生だったらあり得ますよね〜」
るいママ「そうなんだよね〜。でも私ちょっと気になったからるいくんに深掘りして聞いてみたんですよ。まあちゃんってお友達?って」
私「うんうん」
るいママ「少し間があった後に『分からない』って言われました」
私「分からないか〜」
小学一年生でフルネームを知らないのはまあ、違和感は無い気がする。
私も苗字と名前が分かれているのに気が付いたのは小学一年生とか二年生辺りだったような記憶が薄らとある。
お友達なのかお友達じゃないのかぐらいは教えてほしいが、まだ判断出来る年齢じゃないのだろうか。
るいママ「男の子って言っちゃアレだけど、話聞いててもよく分からないじゃない?だから、女の子のお子さんのママに聞いてみたのよ」
私「はなちゃんのママとかに聞いたんですか?」
るいママとはなちゃんのママ(以降はなママと記載)は同じマンションに住んでおり、仲が良いらしい。
るいママ「そうそうそう。それで、はなちゃんがまあちゃんのことを話してたことがあったみたいですけど、何か妙な感じだったらしいんですよ」
るいママは周囲をキョロキョロしながら、人が少ない日用品コーナーへとカートを押していく。私も後を付いて行った。
るいママ「はなちゃんが言うにはね……『クラスにまあちゃんの席は無い』って言ってたみたいなのよ。『席が無いのににこにこしてる』とも言ってたみたいで……妙でしょ?」
私「妙……ですね」
正直、思っただけで口には出さなかったが、まあちゃんはクラスメイトからいじめを受けているのではないか、と頭をよぎった。
しかしこの予想はその後、良い意味でも悪い意味でも裏切られることになった。
スーパーから帰宅後、るいママから聞いた話を子どもに聞いてみることにした。
まあちゃんに関する奇妙な話が本当なのかを判断するのと、私の主観である『まあちゃんはいじめを受けているのではないか』という内容の探りを入れる為でもあった。
どうやって話を聞こうか悩みつつ、ゲームをする子どもに声を掛ける。
私「ねえねえ、なんのゲームやってるの?」
私は普段、子どもが遊んでいるゲームに関心を示したことが無い為か、子どもが嬉しそうな声で答えた。
私の子「これは銃を撃ち合うゲーム!クラスで今流行ってるんだ!」
私「へえ〜そうなんだ!クラスで対戦?するゲームが流行ってるんだ!友達と一緒に遊んだりするの?」
私の子「やるやる!ぼくが一番強いんだよ!!」
私「凄いね〜!……まあちゃんって子とは一緒にゲームするの?」
子どもは直ぐには答えず、銃を撃ち合うゲームの効果音だけが部屋に響く。
私の問いを考え込んでいるのか、ゲームに集中しているかは分からないが、自身の子どもに対して気まずさを感じたのは初めてだった。
私の子「……まあちゃんとはゲームはできないよ。だってまあちゃんは”いつも学校にいる”から」
私「まあちゃんはいつも学校にいるのに、席が無いの?……まあちゃんってもしかして」
幽霊?
そこまで言いかけて口を継ぐんだ。
直感的なのか本能的になのか、理由は分からないが、私はそれ以上深入りしない方が良いと判断した。
それから日にちが経ち、まあちゃんに関する話はすっかり忘れていた。
その日は銀杏の葉が黄色に染まり始めた休日だった。
子どもとパパは二人で公園に遊びにいっており、私はスーパーでの買い物を終えて家に帰ってきていた。
コーヒーを飲みながら、今日が選挙日であることを思い出す。
夜ご飯を作る前に投票へ行くことにした。
私の住んでいる地域は小学校が投票所となる。
そう、その投票所とは私の子どもが通っている小学校だ。
校門をくぐり下駄箱を通り、スリッパに履き替える。そして、投票所として使っている教室へ向かう。
私が通っていた小学校とは違うが、廊下や教室の作りは記憶の中の学校と近しい感じだった。
投票中、もの凄く手洗いへ行きたくなった。
さっき飲んだコーヒーだろうか。
最近気温が下がり始めてお腹が冷えたのだろうか。
あり得る原因を考えながら、苦肉の策で小学校のお手洗いを借りることにした。
お手洗いは投票所の教室を出て、下駄箱の横を通った先の廊下の一番奥にあるようだった。
電気は投票所から下駄箱までの間しか点灯されておらず、下駄箱からお手洗いまでの廊下間はかなり薄暗い。
現在時刻は18時を回っていた。
既に太陽は沈みかけており、季節の移り変わりを感じた。
パタッパタッとスリッパを踏み鳴らしながら一歩ずつお手洗いへと近付いていく。
下駄箱の横を通り、電灯が付いていない廊下に差し掛かった。
クラス名のかかれたプレートを見て、一年生の教室が固まっている区域であることが分かった。
教室の扉の小さな窓から内部を覗き込む。
外側の窓から若干夕日が差しているとはいえ、教室内は暗くて影が多い。
教科書やリコーダー、体操服の入った巾着等が散見できるが、至って普通の教室のようだ。
クラス名を見上げながら進んでいると、うちの子どものクラスを見つけた。
先ほどと同様に、扉の小さな窓から覗き込む。
ロッカー、机。
他の教室と変わったところはない。
教卓。
紙の束の上に重しが置いてあること以外は変わったことはない。
黒板。
何かが描いてある。
扉の小窓からだと黒板に描かれたものがよく見えない。
なんとなく扉に触れてみると、施錠がされていないことに気が付いた。
頭では教室に入ってはいけないことは分かっているが、少しの好奇心と何かに惹き寄せられるみたいな不思議な感覚がして、気が付くと黒板の前にいた。
黒板には赤い線で女の子の絵が描かれていた。
まん丸な目二つの中は赤色でぐりぐりと力強く塗られており、口は線がぐちゃぐちゃしていてパーツの境界がよく分からない。
服装は胸元に大きなリボンの付いたワンピースを身に纏っている。
小さな女の子がよく描くカクカクでのっぺりとしたワンピースだ。
その絵を見て私が何を感じたのかは覚えていない。
少なくとも不気味とは感じなかったし、まあちゃんが黒板に落書きしていた話も思い出していなかった。
私はその時、何も感じず考えず、ただ突っ立っていただけの可能性すらもある。
唐突に背後で何かがガタンと揺れる。
身体がビクッと跳ね、ハッと我に返る。
椅子なのか机なのか何の音かは分からなかったが、教室に入る前に誰もいないことは確認したはずだった。
しかし、確実に背後に何かがいる気配を感じる。
息遣いを感じる。
振り向きたくても振り向けない。声も出せない。
黒板の女の子の絵を視界に入れ続けることしか出来ない。
指先も、瞼一つでさえも動かせない。
正確には”動いてはいけない”と脳が叫んでおり、動くことができない。
これが俗に言う蛇に睨まれた蛙の状態だろう。勿論、私は蛙側だ。
身がすくんで動けないし、動くこと自体が致命的に思えた。
どれだけそのままの体勢でいたのだろうか。
赤ちゃんの泣き声が教室の外からしたことで、張り詰めていた神経が緩んで動けるようになった。
無駄のない動きで飛び込むように教室から出る。
そして、教室を振り返ることなく逃げるように下駄箱まで戻った。
下駄箱には一般の人がちらほら行き来しており、安堵感から少し涙が出た。
赤ちゃんの泣き声の正体は、選挙の投票へ来た一般の人の赤ちゃんが泣いているだけであった。
ありがとう赤ちゃん。
帰宅すると、既にパパと子どもが帰ってきていた。
手を洗う為に洗面所へ行くと、お風呂でパパが浴槽の掃除をしているようだった。
リビングへ移動して冷めたコーヒーを飲み干す。
リビングにいた子どもは私が帰ってきたことに気が付いたのか、私の方を向いた。
子どもの視線が若干低いように感じたが気のせいだろうか。
私の子「ママ、どうしたの」
私「ん?」
言葉の意図が理解出来なかった。
私の子「まあちゃんがいる。ママのうしろ」
反射的に振り返る。
いた。
にこにこしている背の低い女の子がそこにいた。
生気のない瞳。瞳孔が完全に開いていた。
そしてその女の子は「まあ」「まま」と私の目を見て呟いていた。
ママ?
意識が遠のく。
目覚めた時にはまあちゃんの姿は無かった。
私を心配するパパと子どもが私の顔を覗き込んでいた。
これは誰にも言えていないが、その時の子どもの顔が、にこにこしているまあちゃんそのものに見えた気がした。
それからまあちゃんの姿は見ていない。
子どもながらに気にしているのか分からないが、子どもは二度とまあちゃんの話をすることは無くなった。
年月が過ぎ、子どもは中学生になった。
時間が経った今でも学校を見る度に、『にこにこまあちゃん』を嫌でも思い出す。
メリークリスマス