重なる不幸
シードから貰った金で、エルヴィオラは商店街に立ち寄ると中にたっぷりのチーズとトマトとひき肉の入っている揚げパイを買った。
ほかほかの揚げパイが二つ入った袋を持って、これからどうしようかと思案しながら帰路につく。
小さな街はクリーク伯爵家の領地にあるが、大きな産業があるわけでもなく、街の人たちもけして裕福ではない。
エルヴィオラは領主ではあるものの、街の人たちにとってはいてもいなくても、おそらくは同じ。
これは、仕方のないことだ。貴族であっても女性というだけで侮られるし、使用人さえいないクリーク家は今や大きな商家以下である。
せめて夫がいればなどと思っていた自分が甘かったのだろう。
シードと出会った時にはエルヴィオラは十八歳。もうそろそろ十九歳で、二十歳ともなれば貴族女性としては少々行き遅れの部類に入る。
金持ちの貴族の後妻に──などと考えたこともあったが、十歳のアイビーを置いて嫁ぐことなどできるわけがない。
アイビーを連れていったとして、アイビーがもし不幸になってしまったらと思うと、とてもそんな気になれなかった。
「結婚相手を探すのを諦めるべきなのかしら。どこかに就職をして……といっても、働ける場所なんて……王都に行けば、仕事があるかしら」
貴族学園も王都にある。アイビーを入学させるのなら、共に王都に行くべきだ。
けれどここには両親が残してくれた家がある。離れ難いとも思う。
「うまくいくと、思っていたのだけれど……」
シードは悪い人間ではない。もし悪人だとしたら、正直に別れを告げずにエルヴィオラと結婚をして爵位を手に入れた後、エルヴィオラとアイビーを家から追い出して本当に好きな相手を迎え入れることができたはずだ。
誠実な人だ。心を繋ぎ止められなかった──というか、そもそも好きになってもらえなかったことに問題がある。
女性としての魅力にかけるのだろう。恋愛とは無縁だったせいで、どうにも男心というものにエルヴィオラは疎い。
「でも、今日はアイビーに美味しいパイが買えたし、よしとしましょう」
あまり高価な食事を食べさせてあげることはできていない。
畑でとれた芋や、山の山菜や川魚ばかりを食べさせている。お店のミートパイなんていつぶりだろう。
紙袋からはいい香りがする。脂が染みてくるので、お店の人が二重にしてくれた。
紙袋の匂いと、パイの香ばしさの混じった香りに、空腹の胃がきゅるきゅると鳴った。
街の奥の、高い木々が左右に生えている道を進んだ先がクリーク伯爵家である。
家に近づいていくと、どういうわけか煤臭い匂いが鼻についた。
道の向こう側が白くけぶっている。
煤臭い匂いが強くなって、心臓を突き刺すような嫌な予感にエルヴィオラは屋敷に向かって駆け出していた。
「アイビー!」
火事だ。これは、火事の匂いだ。
煤の匂い。もくもくと広がる煙。手にしていた紙袋を投げ捨てる。
両手を握りしめて、ありったけの力を振り絞って駆ける。砂利の地面に靴裏が滑りそうになる。
アイビー、どうか無事でいて、アイビー!
どうして火事なんて……!
アイビーは一人で留守番をしていた。火を起こしたりはしないはずだ。
エルヴィオラと同じようにアイビーには魔法の才能があるが、危険だから一人で使わないようにといつも言っている。アイビーは素直でいい子だ。言いつけを、守らないことなどないはず。
「アイビー!」
お姉様──という声が、聞こえた気がした。
屋敷の前まで辿り着くと、十八年、住みなれた家が炎に巻かれている。
炎はまるでメドゥーサの髪のように屋敷に広がり包むように、うねり、渦巻いてその勢いを増していく。
アイビーは、どこに?
家の中に残されているとしたら。嫌な想像を振り払うように、エルヴィオラは何度もアイビーの名前を呼んだ。
「お姉様!」
煙のせいで視界が悪い。微かな声が聞こえる。
視線の先には、二階のバルコニーの手すりに捕まり、体を乗り出しているアイビーの姿。
家の中から炎が何かの獣の舌のように、アイビーを丸呑みにしようとして襲いかかっている。
「飛び降りて! 大丈夫だから、早く!」
うん、と、アイビーは頷いた。
駆け寄るエルヴィオラの前で、アイビーがバルコニーから落ちていく。
すかさず両手を差し出して、浮遊魔法の呪文を唱える。
アイビーは重さを失ったようにふわりと浮き上がり、エルヴィオラの両手の中へと落ちた。
途端に魔法がとけて、エルヴィオラの両手の中にずしりと重みが現れる。
アイビーを受け止めたエルヴィオラは、その場にどさりと尻餅をついた。
小さな体をぎゅっと抱きしめて「よかったぁ……」と、腹の底から吐き出すように安堵の声をあげる。
「お姉様、お家が……!」
「あなたが無事でよかった、アイビー! 何があったの?」
「わからない。急に、家から火が出て……」
「……長い間雨が降らずに、空気が乾燥していたから、山火事が起きたのかもしれないわね」
炎は屋敷だけではなく、その背後にある森も焼いているようだ。
このままでは街を炎が取り囲んでしまうかもしれない。
騒ぎに気付いて街のものたちも集まり始めている。
水を運んでくる者もいるが、この火の手では焼け石に水だろう。
「エルヴィオラ様、何事ですか!? この炎は一体! どうすれば……!」
「山火事だ!」
「どうしよう……!」
人々が恐れに震える声で言う。
「炎を閉じ込めます」
この質量の炎を消すような魔法を、エルヴィオラは使えない。
エルヴィオラが人並み以上に使えるのは、光魔法のみ。昔から、光魔法だけは得意だった。
両手を屋敷と森へと向けて、本来ならば外敵からの防御に使う光の防壁魔法を構築する。
光は巨大な檻のように炎を閉じ込めて──行き場のなくなった炎は、屋敷と森の一部を真っ黒な墨に変えて消えていった。
「……エルヴィオラ様、ありがとうございます」
「あぁでも、お屋敷が……」
「どうしましょう、なんてひどい……」
炎の消えた屋敷を前にして、街の人々が困り果てていた。
火事が解決したら、新しい問題が起こった。街の人たちにはエルヴィオラとアイビーを養うことができないのだ。
当然である。エルヴィオラたちは貴族で、とてもそんな者たちを受け入れられるような家はない。
エルヴィオラは居候として彼らに迷惑をかけたくなったし、もしかしたらこれは、いい機会なのではないかと考える。
ここにくるまでの道すがら、王都に行くべきかもしれないと思っていたのだから。
「あの、みなさん。今までお世話になりました。私たちは王都に行きます。クリーク家が皆さんにできることは、もうありません。申し訳ありません」
人々はエルヴィオラたちから視線を逸らした。
それはきっと罪悪感からだろう。皆はそんなものを感じなくていい。
伯爵家の長女として、立派に務めを果たすことができなかった自分に非があるのだから。
誰かに頼るのはやめよう。これからは自分自身の力で、アイビーを守っていかなくてはいけない。
「お姉様……」
「大丈夫よ、アイビー。お姉様がついているわ」
エルヴィオラはアイビーの不安げに揺れる瞳を覗き込んで、にっこりと微笑んだ。