エルヴィオラ、謎の美女の食い逃げを立て替える
エルヴィオラが女性の食事代を確認すると、女性は驚きに長いまつ毛がびっしり並んだ瞳を見開いた。
箒を持った男性が疑わしそうな視線をエルヴィオラに向ける。
「あんた、本当にマリアテレーズの知り合いなのか?」
「はい、知り合いです」
「そうは思えないんだがな。あんまり余計なことに関わると、足元すくわれるぞ。ま、俺としちゃ金さえ払ってもらえりゃなんでもいいんだ。食い逃げの料金は五万ゴールドだ」
「五万ですか……」
エルヴィオラの手持ちの残金は、六万ゴールド。
五万を立て替えると、一万しか残らない。
一万で泊まれる安宿がみつかればいいがと考えながら、エルヴィオラは金を財布から取り出すと男に渡した。
五万ゴールドは小さめの金貨五枚。一万ゴールド金貨は十万ゴールド金貨よりも小さく、中央に太陽の刻印が入っている。
財布として使用している紐付きの袋の中身が、たった一万ゴールド金貨一枚になってしまう感触を、指先で感じる。
エルヴィオラはそれに気づかないふりをしながら、財布を鞄の中にしまった。
「きっちり五万ゴールドだ。ありがとよ、お嬢さん。衛兵に突き出されなくてよかったな、マリアテレーズ」
「だから、財布を忘れただけだって言ってるでしょ!」
「その年で、財布を忘れたはないだろ。あんた、もう三十だろ?」
「何よ、三十歳は財布を忘れちゃだめだって言うの!? 二度と飲みに行ってあげないからね!」
「おー、好きにしろ」
箒を持った男は金をエプロンのポケットにしまった。そして、満足気に立ち去っていった。
マリアテレーズと呼ばれた褐色の女は男の背中をしばらく威嚇していたが、くるりとエルヴィオラを振り向くと、満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう、親切な方! こんなに小さい子も一緒なのに、怖い思いをさせちゃったわね。ごめんね?」
十年来の友人のような話し方をする、人懐っこい女性だ。
エルヴィオラは胸に手を当てて、軽くお辞儀をした。
「いえ、お気になさらず」
「食い逃げじゃないのよ、本当に財布を忘れたの。厄介な仕事が終わったから、ぱあっと飲みに来たんだけど、ぱあっとしすぎて財布を仕事場に置き忘れちゃったのよ。取りに戻るって言ってるのに、そのまま食い逃げする気だろって聞かなくて。あの頑固ジジイめ。ご飯とお酒は美味しいのに、優しくないのよ」
「そうなのですね、それは、大変でしたね」
「取りに行くからちょっと待っててって、店を出たら、追いかけてくるのよ。衛兵に突き出すぞ! って。全く、信用がないったら。今まで、ちょっとだけ……十回ぐらい、財布を忘れただけなのに。ねぇ?」
「それは、忘れすぎだと思います」
「忘れすぎです」
思わず口にしてしまったエルヴィオラに、アイビーもうんうんと頷く。
「忘れっぽいのよね、私。でも、おかげで助かったわ。衛兵に突き出されたりしたら、一生の恥よ。部下に笑われちゃうわよ。あぁでも、どうしてお金を払ってくれたの? あなたたち、見たところ旅人でしょう。路銀、なくなってしまったんじゃないの?」
エルヴィオラは肩掛けの小さな鞄と、荷物の入った大きなトランクを持っている。
見るからに旅人という様相だ。アイビーが困り果てた顔でエルヴィオラの服を引っ張る。
残りの路銀がほんのわずかなことを、アイビーも知っているのだ。
「あなたが私に助けを求めてくれたのは、何かのご縁。アミーテ様のお導きです。だから、私はあなたを助けるべきだと判断しました」
「まぁ、あなた。私の部下みたいなこというのね。熱心な女神教の信者なの?」
「いえ、そういうわけでは……女神アミーテ様を信じるのは、王国民として当然のことです」
「なるほど。それはそうか。ごめんなさいね、私、砂漠のグランディートルの血が混じっているの。この見た目だから、わかると思うけど。幼い頃はグランディートルにいたから、あまり女神教に馴染みがなくてね」
グランディートルは、王国を南下して砂漠地帯グリソムドを抜けて、さらに南下した場所にある隣国である。
砂漠のグランディートルには、褐色の肌で体格立派な人々が住んでいるのだと、エルヴィオラは過去に家庭教師から受けた授業で習ったことがある。
「あなた、名前は?」
「私は、エルヴィオラと申します。この子は」
「アイビーです」
自己紹介が済んだ時、「助けて!」という大きな声が聞こえた。
何事かと視線を向ける。エルヴィオラが先ほど行ったばかりの職業斡旋所の扉から、エルヴィオラを担当してくれた眼鏡の女性が走って外に出てくる。
感情の薄い女性だとエルヴィオラは感じた。
けれど今その顔には、恐怖と焦りがべっとりとへばりついている。
女性の後ろから、エルヴィオラを先ほど押し除けた、強面の男性が外に出てくる。
男性の後ろから、職業斡旋所の職員と思しき男性たちが、青ざめながら後を追ってくる。
「え……っ」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
女性が空を飛んで、職業斡旋所に並ぶ人々の行列に突っ込んだ。
「きゃああっ」
悲鳴があがる。行列が乱れる。何人かの人々が、女性の下敷きになっている。
男が、女性の服を掴んで、思い切り投げ飛ばしたのだ。
「舐めやがって! 仕事がねぇだと!? 偉そうにしやがって! 俺たちの支払った金で食ってる分際でよぉ!」
男は完全に平静さを失っている。
暴れ馬のように腕を振り回して、手に触れたものを手当たり次第に投げ始める。
ベンチに、テーブル。綺麗に花が植えられている、植木鉢。質量のあるものを簡単に投げることができるぐらいに、腕が太い。
悲鳴をあげて、人々が逃げ惑う。エルヴィオラはアイビーを背後に隠した。
「仕事がねぇと食っていけねぇんだよ、こっちは! 飢え死にしろって言いてぇのか!? 学のねぇ俺にはできる仕事がねぇってのか!?」
「落ち着いてください!」
「どうか、落ち着いて!」
「うるせぇ! 俺はもう、十日もここに通ってるんだ! 毎回、仕事がねぇ仕事がねぇを繰り返しやがって! どうせ俺を見下してるんだろ、お前らはよ!」
「あなたにできる仕事を、紹介しました」
投げ飛ばされた女性が、なんとか体を起こして震える声で言う。
「下水道の掃除なんてできるか! 頭の悪い男は、汚ぇ仕事をしてろってのか!?」
下水道の掃除は立派な仕事だ。
エルヴィオラが、その仕事を貰いたいぐらいだ。どうして紹介してくれなかったのだろう。
女だから、体力がないだろうと思われたのだろうか。
男の怒りには全く共感できない。エルヴィオラは眉を寄せる。
ともかく、男を落ち着かせる必要がある。
エルヴィオラは一歩前に出る。指先に魔力を集中させる。
領地では、領民たちを守るために魔物を退治していた。男一人ぐらいなら、エルヴィオラにもなんとかできるはずだ。
「暴れ牛だな」
エルヴィオラが魔法を構築する前に、マリアテレーズが冷たい声でそう言って、まるで風のように男の元まで駆ける。
あまりにも一瞬のことで、駆けたことさえ分からないぐらいだった。
美しい足が弧を描き、男の顎を蹴り上げる。
そのままくるりと一回転して、マリアテレーズはのけぞった男の腹をヒールのあるブーツの靴底で蹴り飛ばした。
二日ほどインフルエンザで寝込んでいまして、久々の更新です。元気です。生きてます〜。




