雷鳴と召喚
窓のないこの部屋は、昼間でも仄暗さに包まれていた。行き場を無くした薬品の匂いが辺りに澱んでいる。それが尚のこと、彼の緊張感を際立たせてくれるのだが。
張り詰めた糸を解くように、術士は肩にかかった己の銀髪を後ろへと払いのけた。
彼の眼下、寒々しい石畳の床に描かれているのは、古代文字と幾何学模様が交錯する魔方陣だった。術士が手をかざせば、魔方陣はわずかに光を帯びる。
これなら、いける。取り出した杖を握る術士の手にも力が籠った。
「――始めよう」
深呼吸と同時に術士は目蓋を閉じる。暗闇のなかで、彼は足元に揺蕩う力の渦を確かめた。……この混沌から、乞う者の路を標すのだ。
戒めを胸に宿し、術士は杖をかざしながら短く息を吸い込む。そしてまた深い吐息へと乗せるように、言の葉を紡ぎ出した。
――《四と五の交わる時、狭間で揺れる刹那は無限を生む》
何処からともなく現れた靄が、魔方陣に沿って渦を巻き始める。
――《幻想は現実に紛れ、形を探し始める》
凛とした声音に共鳴するように、魔方陣の灯す光が強さを増していく。
――《空に流るる言霊を重ね、その姿を現せ》……
長い詠唱を終え、最後の一文を唱えると共に彼は目を見開いた。
「《今此処に、代理人を喚び寄せり》!」
空を斬るように杖を振り下ろせば、途端、魔方陣から四方へと閃光が走り抜けていった。術士も堪らず袖で顔を覆う。
来い、此処に。貴殿を望む声が届いたのなら――
速まる鼓動と呼応するかのように、幾度となく光は辺りを撫で上げていく。小さな袖の影から目を細め、術士は光が消え失せる迄の長い刹那を見守り続けた。
◆◆◆
《――……、》
「――ん?」
呼び掛けられたような気がして、少女は振り返る。
けれどこの、今にも気まぐれな豪雨が襲い来そうな空の下。忙しなく路を行く人波のなかで、それらしい人物を見付けることは出来なかった。
空耳か、と指で頬を掻く少女の耳に、今度は確かな轟きが届く。
「……雷」
そう呟いた少女の見上げる曇り空が、鈍く煌めく。雷鳴はまだ遠い。
降ってくる前に着かなくちゃ。
傘を忘れた間抜けな自分に溜め息を吐くと、少女も足早に帰路を急いだ。
《――願い……だ、此処……へ――》
結局降りだした雨粒が辺りや体を容赦なく叩き始める。しかし少女は、雷雨以外の“何か”の音をすぐ近くのような、遥か遠くのような――だが確かに耳にし続けていた。
まさか、イヤホンは外してたはず……
と少女は思うものの、この雨模様の下、鞄を傘がわりに形振り構わず走り行く状態で不安は増していく。買ったばかりのイヤホンが参ってしまったら……それに、
――“何か”が、また別のものだったら?
「あっ」
辺りを白く撫でた光を追うように、すぐさま轟音が鳴り響く。少女はふと目に入った軒先へと思わず飛び込んでいた。
『――!……、――』
そこはビルの横に備え付けられた、大きな液晶ビジョンの前。丁度画面には地図の上で鞭先を走らせているアナウンサーが映っており、雷のマークを動かしながら落雷の注意を力説しているようだった。
……雨音でその声は掻き消され、殆ど少女の耳には届かなかったが。
「ハンカチタオル……あ、イヤホン」
濡れ鼠をやわらげようとカバンを漁れば、少女が気に留めていたイヤホンはタオルの下に、確りと纏められて入っていた。
「じゃあ、あの声は、」
何? と続ける前にまた、少女の周りは白に埋め尽くされる。遅れて閉ざされた瞼により、今度は視界が黒に染まった。
劈くような雷鳴に身体は震え、少女はカバンも何もかも手放してしまう。
《来い、》
意識も、
《此処へ》
世界も。
――そして少女は声に導かれるまま、次元を渡った。
◆◆◆
「成功、ですね」
額に張り付いた前髪を払いながら、杖をかざしていた腕を下ろす。光の収まった部屋の中心で、魔方陣はわずかな靄を残しながらもその存在を私に見せてくれた。
「え……えぇえ!??」
《代理人》はこちらに背を向けた格好で驚きの声を上げると、栗色の髪を揺らしながら辺りを見回している。どうやら私に気付いていない様子。……ここは一咳、
「コホン」
「! 誰!?」
ビクッと身体を震わせながら振り向く《代理人》、その視線がやっと私に交差する。夕映えを思わす瞳や表情が不安を露にしていた。
「驚かせてしまいましたね……私はヨーゼングニル。貴女を此処に喚び出した者です」
出来る限り柔和に、人当たりよく微笑んで差し出した腕——の動きに合わせて《代理人》は後退り、私もピシリと止まる。
「呼び出した……? ど、どうやって——だってさっきまで帰り道で、雨が降ってて……こ、ココ何処!?」
取り乱したまま怯える《代理人》を——彼女をどう落ち着かせるべきか。一瞬の思案に正解を見出せなかった私はともかく話を繋げ、続けることとした。
「此処は私の家、の地下室です。《召喚術》の研究室を兼ねていますので——その《召喚術》で貴女を呼び出しました。元の場所のことは存じ上げず申し訳ないのですが……」
「え、あ、はい……?」
話を聞き、飲み込もうとはしてくれているけれども理解が追い付かないよう。思わず口元に手を寄せるが大事なことを思い出してパッと人差し指を上げる。
「失礼ですがお名前をお聞きしても?」
「あ、えっと、——国木田亜津穂、です」
「クニキダアツホ——」
聞き慣れない語感に復唱すると、「あっ、名前は亜津穂、アツホです……!」と落ち着きかけた矢先から慌てさせてしまいそうなので、「わかりました、アツホさんですね」と笑って見せた。
アツホ、とは大分シンプルな名前だ。そして『名前は』と言うからにはクニキダは家名だろう。これまた聞き覚えもない言葉だ。
「あの、ヨーゼ……すいません、あの」
おずおずと話しかけようとするアツホの様子に私は「ああ」と合点が行った。私が彼女の名に馴染みがないように、彼女も私の名が言いづらい、或いは覚え切れない? ようだ。
「ヨーゼングニルが言いづらいようでしたらヨーゼルとお呼び下さい。見知った方々はそう呼ばれますので」
「ヨーゼル、さん。わかりました……ええと、ですね」
そわつきは抜け切らないまでもアツホなりに現状を把握したくなってきたらしい。急かすものでもないので彼女のペースに合わせて言葉を待ってみる。
「わたしはどうして——喚ばれ? たんですか……?」
控えめに見つめ続けは出来ないようだが、目を合わせてアツホは訊ねる。理由は話せば長くなるが——端的に、重要な部分を。
「貴女に、アツホさんに力を貸して欲しいのです」
貴女にしか出来ない力を、と真っ直ぐアツホを見つめて続けると、彼女の瞳は見る見るうちに大きく見開かれていった。
8年埋めてました。せめて続けたい