たとえ、偽物であったとしても
「げほっ、ごほっ」
自室で大きく咳き込むと、血の味がした。案の定、口元を抑えていた手を見ると、鮮血がついていた。血に濡れた手を、水で洗い流す。血はゆっくりと流れていった。
術者の言葉が蘇る。
『【蟲】を取り込めば、疑似的な魔眼の力が一時的に得られますが――、体に大きな負担をかけることになるでしょう』
そう「かくれんぼ」のときに、ブレンダに恋心を植え付けた、この力は一時的。いつかは、解けてしまうものだ。
いつか、ブレンダは私が無理やり植え付けた偽物の恋心を失くしてしまう。だから、その前に、ブレンダには本物の恋心を抱いて貰わなければならない。
あの日、劇場で見たブレンダの笑みを思い出す。ブレンダは、きらきらとした瞳で、笑っていた。その笑みを見た時、私は、心が満たされるのを感じた。
そうだ、その表情こそが、私が得たかったものだと。
私に、恋をしてからブレンダは変わった。以前は、私が話しかける度に張りつめていた空気が、柔らかくなった。貼り付けた仮面のような微笑を捨て去った彼女は、まばゆくて、私を惹きつけてやまない。
ブレンダが私に向ける表情全てが、愛おしい。ブレンダにその表情をさせているのは、他ならぬ私だと思うと、嬉しくて叫びだしたい衝動に駆られるほどだ。
私は、ブレンダに恋をした。底無しの沼は、どこまでも私を堕としていく。でも、私だけが堕ちるなんて不公平だ。彼女にも、堕ちてもらわなければ。
『ほんとうに、それでいいの?』
頭の中で声がする。この幻聴も、疑似的な魔眼による副作用だ。幼い私の声は、まっすぐに私を糾弾する。
『ブレンダは、私に意思をくれたのに。それなのに……』
――彼女の意思を捻じ曲げるようなことをしているのはわかってる。でも、偽りから始まった恋でも、いつか本当になるのなら、それは本物と呼べるんじゃないか。
『願い事を叶えるためにあらゆる手段を使うのは、間違っていない』
また、別の声がした。今の私の声は、私にとって都合のいい言葉を甘美に囁く。
――そうだな、私は間違っていない。
『いまなら、まだ引き返せるよ』
『もう無理だ。術はこちらからは、解けないからな』
『ねぇ、謝ろうよ』
『謝る必要なんてあるものか。いずれ真になれば、何一つ問題はない』
――相反する声が、うるさい。二つの声を振り払うように、首を大きく振ると、声はやがて聞こえなくなった。
「……ブレンダ」
ゆっくりと愛しいその名を呼ぶと、ブレンダの輝く笑みが頭の中で蘇る。
……そういえば突き飛ばされたときに、怪我は本当になかったのだろうか。先ほど、せっかく話せる時間があったのに、聞きそびれていた。自分の不甲斐なさにため息が出る。
アリーシャ・ライモンド伯爵令嬢。ライモンド家の次女で、確実に――、私の婚約者の座を狙っている。星集め祭でペアになれるように、わざわざくじに細工までしたほどだ。
でも、彼女は第二王子妃になれるかもしれない、という地位に固執しているだけで、私自身を好ましく思っているわけではない。
ライモンド嬢が地位に固執しているのなら、いっそ私が、臣籍降下するのはどうだろう。臣籍降下するなら、父や母からはとやかく言われなくなるし、兄と兄の婚約者の仲も良好。
ブレンダにも言った通り、私が王族から抜けたところで、問題はないように思われた。
それにライモンド嬢は、私にとって都合のいい――たとえば、ブレンダを嫉妬させるようなことをしてくれるのだと期待してもいた。放っておいていいと思っていたが、ブレンダに手を出すようなら話は別だ。ある程度の制裁は与えなければならない。
それから――……。自室の机の上に山のようにたまった、手紙を見る。内容は父と母からで、新しい婚約者候補との面会の日取りを決めるようにという催促の手紙だった。
面会など、するものか。私は、ブレンダが好きだ。私の隣にいて欲しいと思うのは、たった一人のブレンダだけ。彼女がいれば、何もいらない。……だから。
もうすぐ、期末テストがあり、それが終われば夏季休暇だ。夏季休暇で王城に戻った際に、臣籍降下の件を相談してみよう。王族と平民は結婚できないが、貴族と平民なら結婚もできる。
だがもし、臣籍降下が無理なら、気が進まないがスコット公爵家の籍を復活させるしかない。ブレンダは、貴族に戻りたいとは思わない、と言っていた。だが、当主であるシリウス・スコット公爵がもうすぐ長男である、リヒト・スコットに家督を譲る。ブレンダの兄でもあるリヒトは、学園入学前は、ブレンダを溺愛していた。彼がブレンダと入れ違いで学園を卒業し、当主になる今だったら、ブレンダもスコット家に戻ろうと思うのではないだろうか。
「……いずれにせよ、動くなら夏季休暇以降だな」
ベッドに寝転がり、強く目を閉じる。
ブレンダの想いがいつか、本物になる日を願いながら。
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ここまでで、二章終了となります!
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