錯覚
微笑んでくれたミランは、はじめのうちは、笑っていたのだけれど。
「……ちょっと、待ちなさい!」
「? どうしましたか?」
ジョキジョキと音をたてながら、髪を切っていると、ミランに止められた。
「あなたの髪はせっかく綺麗なんだから、そんなにぞんざいに扱うものではなくてよ! ……あぁ、もう、鋏をかしなさい」
そういって、ミランは鋏を手にもつと、私を鏡の近くの椅子に座らせた。
そして丁寧に櫛で髪をといて、髪の長さを揃えていく。
「ミラン様、お上手ですね」
私が意外に思いながら、そう誉めると、ミランは鼻をならした。
「あなたが適当すぎるのよ」
時々首に、ミランの手が触れて、それがくすぐったくて笑ってしまう。笑う度に、あまり揺れるとうまく切れないわ、とミランに怒られるのだけれど。それも、またこそばゆくて、笑った。
「……できたわ」
「ありがとうございます、ミラン様」
水色の髪は肩の高さで揃えられていた。鏡に映る私は、以前よりも身軽に見える。
「以前の髪が似合っていなかった訳じゃないけれど」
ミランはそう前置きして、続けた。
「似合ってるわ」
「私も、そう思いました」
まるで初めからこの長さに整えられるべきだったような。そんな錯覚を覚えるほど。
その後は、切った髪を片付けて、また、二人でおしゃべりをして過ごした。
翌朝。自室をでる前に鏡を確認して、笑顔になる。
いくら似合っているとミランが太鼓判を押してくれたとはいえ、最初は見慣れないかと思った。
でも、夜が明けても違和感をもつことなく、髪は私に馴染んでいた。
これで、ブレンダ・スコットは死んだ。
ここにいるのは、ただのブレンダだ。
知り合い以外は、私を元貴族だとは思わないことだろう。
そういえば、今度の休みに下町におりて、散策してみようか。
平民となった私を、誰かが拐うメリットはない。反対に、私に護衛をつけるメリットもない。
つまり、自由に歩き回ることができる。
「楽しみがひとつ増えたわ」
私は上機嫌で、自室をでたのだった。
学園につくと、なんだかみんなが私をみている気がした。
自意識過剰かと思ったけれど、単純に髪が短い女子生徒──つまり平民は今年度は私だけ。
この髪は平民です! と主張しているようなものだから、物珍しいのだろう。
そう思いながら、教室に向かっていると、意外な人物に話しかけられた。
「……ブレンダ」
「? はい」
名前を呼ばれて振り向くと、アレクシス殿下だった。
アレクシス殿下は昨日のような戸惑いを浮かべていた。
「髪を……きったんだな」
「はい」
話はそれだけだろうか?
ホームルームが始まる前に、今日の授業の予習をしたいんだけどな。
けれど、まだ、アレクシス殿下はなにか伝えたいことがあるようだったので、首をかしげる。
「どうされましたか?」
「その髪は……、いや。似合っている」
「ありがとうございます」
思わず、笑みがこぼれる。
本当は平民の私は、謙遜したほうがいいのだろうけれど。
もう、感情を殺すのはやめたのだ。
それに、誉められるのは何度目だって嬉しい。
「……っ、ブレンダ」
「? はい」
アレクシス殿下は目を瞬かせた後、何かを言いかけ、そして、やめた。
「君は──……、いや、なんでもない」
「そうですか?」
アレクシス殿下は何を言おうとしたのか。
気にならないでもなかったけれど、もう、私は婚約者ではないので、追求しない。
「では、失礼いたしますね」
「……あぁ」
特待生として良い成績を維持しなければならない私は、やっぱり何かを言いたげなアレクシス殿下を残して、教室に入ったのだった。