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5話:テディ、決意する

夕焼けの中のヌーン家の屋敷を眺めながら、テディは自宅の鶏に餌をやっていた。

闇に沈みかける古い建造物は日中に見せる壮大な美しさと裏腹に、実際よりも大きく居丈高にそびえ立つ。かの屋敷がテディに与える威圧感は、ルーナとテディの間に横たわる「身分の差」そのものでもあった。

物心がつくかつかないか、それくらいに幼い頃から、テディはルーナのことが好きだった。理由は彼自身にもわからない。

屋敷の傍らの小屋に生まれ、乳母である母に手を引かれて屋敷に通い、テディはずっとルーナの側で彼女と一緒に育ってきた。病める時も健やかな時も、嬉しい時も悲しい時も、テディが欲しいのは彼女の関心と笑顔だけ。

街の学校に通い始め、ルーナだけでなく他の同世代の子どもたちと遊ぶようになっても、一番好きで、最も大事にしたい女の子はルーナただ一人だった。

「いつから」「どうして」、ルーナのことを好きだったのかはわからない。けれども、彼女を「好きだ」と意識した瞬間は覚えている。


──お嬢さまと、キャロウ家のパトリック様が、ご婚約されたそうだよ。


ある日の朝、食卓の前で母がそう告げた瞬間のことを、テディは一生忘れられないだろう。彼女の口ぶりは軽く、ルーナの縁談を喜ばしく思っていることが聞き取れた。

ルーナ・ヌーンとパトリック・キャロウが婚約したのは5年前、ルーナとテディが8歳の頃だ。婚約や結婚などという言葉はテディにとってはまだ遠く、別世界の話のように聞こえた。まさかすぐ側の、最も近い幼なじみの身に降りかかる出来事とは夢にも思っていなかった。

その当時、ヌーン家の状況は酷く荒れていた。先代伯爵であるルーナの祖父と、その後継者であったはずの父が二人いっぺんに事故で亡くなったからだ。まだ学生だった長兄のサイラスが慌てて実家へ呼び戻され、彼は一世代飛びに爵位と財産を継ぐことになった。莫大な相続税と共に。

幼いテディには詳細は分からなかったが、この相続税のおかげでヌーン家の財政が傾きかけていることは、祖父と両親も含めた屋敷の使用人たちの雰囲気から感じ取っていた。明日には路頭に迷うかもしれない、そんな恐怖心から、屋敷を去る者も絶えなかった。

事態が好転したのは、キャロウ家の当主がヌーン家に出入りするようになり、そして、サイラスが外国の大富豪の娘であるナンシーと結婚してからだった。先代伯爵の知己だったというキャロウ家の当主は、まだ若いサイラスの後見人役を申し出て、彼が社交界に馴染むよう取り計らい、結婚の世話までしてやった。そんな恩人の孫息子・パトリックと、サイラスの妹のルーナが婚約するのは、外から見れば当然の流れだったはずだ。そしてそれは、若い伯爵が体の弱い妹の身を案じてのことだったのだと、今となってはテディも理解している。

しかし幼かったテディがそんな大人の事情など理解できるはずもなく、少年はひどい拒否感を覚えた。まるで雷に打たれたようなショックで、体の内側で血が煮えたぎり、全身が「嫌だ」と叫んでいた。


──嫌じゃないんスか? お嬢さまは。勝手に結婚相手を決められて。


まだ恋も知らぬ幼い少女が、家族の勝手で将来を決められてしまう。そんなひどいことが許されるのか。言葉に出来ない怒りに身を任せ、つい口を出た疑問に、ルーナは困ったように微笑んだ。


──仕方のないことだから。貴族の女性はそうやって結婚するんですって。お母さまもお祖母さまも同じだったって、お姉さまが言ってたの。


「仕方がない」。そう言って8歳にしては大人びた目をしたルーナは、走ることや遠出を医者に止められた時と同じ、諦めが混じった目をしていた。貴族だから、仕方ない、家のためだと。彼女にそんな風に言わせる伯爵家が許せなかった。

けれども、同時に、テディは十分に理解していた。これが「貴族」なのだと。ルーナとは幼なじみであっても、同じ立場では決していられないことを祖父と両親は強くテディに叩き込んでいた。ルーナと話すときは敬語を徹底され、ごくまれに喧嘩をしても絶対にテディが先に謝らなければならなかった。テディは彼女を「ルーナお嬢さま」と呼び、ルーナは「テディ」「お前」と呼びかける。どれほど親しくしても、二人の立場が崩されることはなかった。

形式的に胸に刻まれていた「身分の差」を、はっきりと身をもって感じたのはその瞬間だった。すぐ側に、隣に座っていて、いくらでも触れられそうなのに、ルーナとテディの間には深い深い溝がある。貴族の娘と使用人の息子。どうやっても叶いそうにない、身分違いの恋心。恋心?

……ああ、オレは、お嬢さまのことが好きだったんだな。

8歳のテディは、初恋の自覚と、失恋の悲運を一度に味わった。


「『好きな人ができたら教えて』か。あれは効いたなァ」

テディは独り言を零す。餌の乾燥とうもろこしを啄んでいた鶏がテディに同意するかのようにココッ、と鳴いた。

ルーナの婚約が決まってから、いや決まる前から、二人の間で恋愛の話題が出ることはなかった。ルーナに自由恋愛は許されず、テディはルーナ以外の少女を好きになれそうにない。思春期を迎え、男女の差がはっきりと肉体に表れるようになっても、友情を保ち続けるには恋心を感じさせないことが大事だと、テディは考えていた。オレはあくまでもお嬢さまの幼なじみ、庭師と乳母の息子。これから先も側にいたいと思うのならば、恋心を悟られるわけにはいかないと、テディは必死に取り繕ってきた。

ルーナからあの言葉が出たということは、彼女はテディの想いなど微塵も知らないということだ。テディの努力の成果ではあるが、彼は密かに傷ついた。結局、世界がひっくり返っても、ルーナがテディを好きになることはないのだと、改めて突き付けられたのだ。


「……テディ? テディ!」


突如呼び掛けられ、テディは慌てて我に返る。顔を上げれば、すぐ側に立っていたのはヌーン家の下僕のバートだった。彼は小包を手にしており、テディはまたウッド家への荷物が屋敷に届けられてしまったことに気がつく。ウッド家はヌーン家の敷地内の片隅にあるので、配達員が面倒がって屋敷にまとめて届けることがあるのだ。

「バート、郵便ありがとう、誰から?」

「お前の上の兄貴からだよ。珍しい花の種が手に入っただとか」

バートは小包を投げて寄越すと、ため息を吐いて胸元から煙草を取り出した。ああ、郵便を届けるついでに煙草休憩をしに来たのか。屋敷ではルーナの喉に悪いからと、全面禁煙が言いつけられていたはずだ。

「テディ、お前、またお嬢さまの部屋に忍び込んだらしいな」

バートは紫煙を吐き出すと、心底呆れたように言った。テディは肯定も否定もせず、ただ笑みを浮かべる。バートはテディの一番上の兄の友人であり、兄二人が家を離れている今、兄の代わりにテディにちょっかいを出してくる。屋敷では有能な使用人を演じていると聞くが、本当だろうか?

「いつまでも『幼なじみ』でいられると思うなよ。あの家の人間は貴族なんだからな」

「わかってるよ」

テディは何でもないように答えたが、わずかに唇を尖らせてしまったのを気付かれてしまったらしい。バートは再びため息を吐くと、諭すように話した。

「あのな。俺はお前のことを心配してやってるんだぜ。お前は顔も頭も悪くねえし、体だって大きくなるだろ。しょうもない初恋なんて忘れて、とっと大人になれ」

テディは返事をしなかった。バートに言われずとも、わかっているつもりだ。

「……それでも、どうしてもお嬢さまの側にいたいって言うんなら、俺みたく屋敷で働くことだな。ホッブズさんに口利きしてやるから、学校を卒業したら下僕として働くなんてどうだ? 俺が執事に出世したら、お前も従者にでもしてやるよ」

「嫌だ」

屋敷に勤めるなど、そんなことをしてしまったら、二人は友人ですらなくなってしまう。上下の立場が確定し、二度とルーナと親しく話すことは出来なくなるだろう。バートの背後に、彼の上司の執事のホッブズ、主人である伯爵夫妻、そしてテディの家族の思惑を感じる。彼らはルーナとテディの親しすぎる中を危ぶんでいるのだ。駆け落ちでもされたら大事だと──皮肉なことに、ルーナには全くその気がないのに。

「ま、卒業まであと数年あるだろ。考えとけ」

バートはその言葉を最後に、煙草を吸い終えて屋敷に戻っていく。黒い制服の背中が、闇の中に溶けそうに見えた。いつの間にか日が暮れていた。

身分の差、叶わぬ恋心など、もう十分に理解している。けれど、一番親しい友人の座をみすみす手放すつもりはない。ルーナが大人になり、いつかこの家を離れる日までは。オレが、オレだけがあの人の側にいるんだ、ずっと、許される限り。


──テディ、私、私は──「アイドル」を作るわ。前世で、夢で見られなかった「武道館ライブ」を作るの。そしてテディ、お前は私の作る「アイドル」のリーダーになるのよ!


あの日、この家に飛び込んできたルーナの言葉が、どれほど嬉しかったことか。「仕方がない」と微笑んでいた彼女が、どうしても諦められないのだと、目を輝かせて。

たかが夢だと、どんなに滑稽だと笑われても、テディは彼女の望みを叶えてやりたかった。


「オレは『アイドル』になるよ」


理解できない、わけのわからないことだったとしても、オレはお嬢さまを喜ばせるためなら何でもやるつもりだ。

テディは屋敷に向かって呟いた。ルーナの望んだ「訛りのない」言葉で。

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