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電車を降りた主は、茫然自失の体であった。慣れぬ神聖術の行使に疲労したものと思われる。しかも、降りたのは予定の駅ではなかったのであろう。迷子のように駅員に縋り付き、現在地を確認していたな。


さすがに吾輩の封印は施したものの、何を思ったのか駅を出て、タクシーを拾いおった。次の電車を待てば良いのではないか? 目的地につくのなら吾輩としては異存はないが、一貫した行動とは思えぬ。


いや待て、主に論理的思考が備わっていないとは言い切れぬぞ。他の乗客を巻き込まないための配慮かもしれぬ。先だっても電車内で多数の者が邪宗亭の影響を受けていたではないか。


被害を抑えるためにわざわざ乗り物を変えるとは見上げた心がけだ。少し見直したぞ。


道に不慣れなタクシー運転手にやっとの事で目的地を告げると、主は黙りこくった。


陰影の濃い横顔から、主の思考は読み取れぬ。何を想っているのだろう。これから先に待ち受ける試練に緊張しているのか。吾輩がついているから案ずるでないぞ。


タクシーが停車したのは住宅地の一角だ。主は金を払いタクシーの外に出ると、立ち止まって風景を一通り目に収め、


「この辺も変わってないといいけどな」


と、言った。自分の位置を再確認すると同時に、記憶と現実とのズレに戸惑わないように身構えているようであった。


主は何軒か連なる一戸建ての一つに足を止めた。ガレージには外国産の自動車、庭には真新しいブランコとサッカーボールがあり、小さな子供がいることを匂わせた。


「よく来たな、まあ入れよ」


出迎えてくれたのは、三十代後半の男だった。眼鏡をして四角い顔をしている。


家は建てて間もないのだろう。新築のこそばゆい香りに主は鼻を鳴らしていた。


明るいリビングには脱ぎ散らかした子供の服を畳む夫人の姿があった。ようこそいらっしゃいました。と、一瞬だけ吾輩の主に目を向け、また子供の服を畳み始める。


久闊を叙する二人の男の会話をかいつまむに、彼らは兄弟らしい。吾輩の主は弟のようだ。よく見れば眉の濃さが似ておる。


「お前、変わったな。ちゃんと食べてるのか」


これまで二人の間に交流は少なかったのか、会話はぎこちない。


「まあね、自炊する習慣はつかなかったけど、今は色々あるから」


「体は資本なんだから、ちゃんとしないとな。それより、今日はどうした。朝いきなり電話があった時は驚いたぞ」


妻が鋭い目で夫の背中を睨んでいた。夫は身震いしたように坐り直し、主に来意を訊ねたのである。


「実はこれを……」


話に聞き入っていた吾輩は、ふいに視野が転倒したのを訝る。


「兄貴に貰ってほしい」


重々しい主の決意とは裏腹に、 吾輩の体は軽い物音を立てテーブルに置かれた。兄は値踏みするように吾輩を見下ろし、鼻で笑った。


「何を言い出すかと思ったら、とうとうおかしくなったか。こんな玩具どっから引っ張り出してきたか知らないが、冗談だよな?」


吾輩を譲渡しようという主の発言に衝撃を受ける。


それにも増して、いみじくも聖槍である吾輩と、主を愚弄するとは親族であっても許せぬ所業。今の所静観する他ないのが悔やまれる。


「冗談なんかじゃないよ。兄貴の子供に渡して欲しい。でないと、俺、俺……」


情けなく震える主の肩の上に、兄の分厚い手の平が置かれた。


「お前は疲れてるんだよ。呑みにでも連れてってやるから、久しぶりに兄弟水入らずで話そうじゃないか。ん?」


主は歯を食いしばり兄の手を払いのけ、吾輩を掴んで駆け出した。


穏便な兄の言葉に主は無言で反発し、躓きながら家を飛び出した時、背後で不埒な会話が聞こえた。


「やれやれ、仕事を辞めたとは聞いてたけど、あれじゃ何かしでかしかねないぞ」


「あなた、さっきの変な玩具貰っておいた方が良かったんじゃありません? フリマアプリで売れてたかもしれないのに」


「そうか?あんな昔のガラクタ、欲しがる奴の気が知れないよ」

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