八話
私が私でいられる理由なんて分からない。
ただ存在しているだけで罪を背負わされた私に望みを持つことは許されないのだ。それに、色のない世界で生きていくのに自己なんてものは邪魔でしかない。少しでも欲を持ってしまったら、際限なく幸福を求めてしまいそうで怖さが先に立つ。
だから、私は誰かが殺してくれるのを待つ。
「おい、ナニ惚けてんだ。助けてもらって礼の一つも言えねぇのかよ」
凜音が慇懃な態度で少女に話しかける。空から現れた闖入者の正体か、もしくは目の前で大男が吹き飛ばされたことがショックだったのか、少女は驚いたように彼女の顔を見る。
まだあどけなさの残る顔は中学生くらいだろうか。少女の無垢さはこの街には不似合いだったが、身にまとっている服のみすぼらしさは確かに彼女が貧民の出であることを示していた。
「もしもーし、聞こえていますかァ?」
反応のない少女にいい加減相手をするのも面倒だと思った凜音は、自分が蹴飛ばした男に視線を移す。
手応えは微妙。蹴った感触は、まるでコンクリートのブロックのような固さで、およそ人間の筋肉とは思えなかった。
「ま、生きてたら生きてたでトドメを刺せばいいか……ん? ゲッ、さっきのオッサンがいるじゃねぇか」
凜音は三船の存在を確認し、女子高生にあるまじき声を出して後ずさる。別にやましいことはないのだから逃げる必要はないのだが、恐喝まがいの方法で金をせしめたことが彼女のノミほどの良心を痛めつけた。
ちなみに、ビルから飛び降りてきた彼女のパンツは広場にいたほとんどの人に目撃されてしまっている。残念ながら彼女のスカートは鉄壁というには程遠く、さらに真下に対しての防御はないに等しいのだから当然の結果である。
「三船、あの娘と知り合いか?」
「あ、ああ。いや、俺も詳しくは知らないんだが、さっきちょっとな……」
まさか、彼女にパンツを見られたと言われて金銭を渡したなんて現職の刑事に言えるはずもなく、三船はゴニョゴニョと言葉を濁すのだった。
いつもの竹を割ったような性格の男には珍しい反応に鏑城は怪訝な表情を見せるも、すぐに意識は凜音に向ける。
「とにかく少女は無事なようだが、とはいえ目の前で暴力行為は見過ごす訳にはいかない」
「お、おい!? まさかアイツを逮捕する気じゃないだろうな」
「当たり前だろう? どんな理由があれ暴力は暴力だ。さすがに逮捕とはいかないが、口頭注意くらいはさせてもらう。まだ未成年のようだしな……待て。あの娘、学校はどうした」
こんな街にいるわけだし不良は珍しくもないが、警察官として非行は見逃せない。 麻薬中毒者の魔の手から少女を救ったことは賞賛に値するがそれとこれは話が別なのだ。
鏑城は一時の緊張感から解放されて張り詰めていた息を吐いて彼女たちの元へ一歩足を踏み出した。広場全体に弛緩した空気が漂っている。彼女に煽られた儀同会の面々も空から降ってきた彼女に度肝を抜かれてしまったようで、どうしたものかと困惑していた。このまま事態は収束するかに思われた。しかし。
「――ッがああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
突如、獣の咆哮を思わせる重低音の轟が辺りに響き渡った。
聞く者の背筋を震わせる本能からの叫びは、凜音に吹き飛ばされた男から発せられたものだ。束の間の気絶から目を覚まし、自分に危害を加えた人物に対する怒りで僅かに残された理性すらも失われてしまっていた。
「おいおい、勘弁してくれよなぁ。なぁんか面倒くさそうな気がするンですけど!」
先手必勝。凜音は『大食らいのロッソ』が自分の場所を視認する前に、一足飛びで距離を詰めると迷わず回し蹴りで男の首を強かに打ち据えた。
「どうだ!」
勝ちを宣言する彼女だが、すぐに顔をしかめる。人体でも脆い部分のはずなのに、男のソレは大木の幹のような頑強さを備えていた。
すぐに体勢を整えて追撃に移ろうとする凜音だったが、男が足首を掴んで離さない。
「クソッ、離しやがれ! ――っと、うわっ!」
ロッソは掴んだ足を頭上に掲げると、空いた彼女の腹に向かって拳を叩き込もうとする。豪腕から繰り出される一撃は大砲のようで、大の男であっても内蔵がぐちゃぐちゃになるのは必定である。間違いなく凜音の細いウエストでは耐え切れるはずがないと誰もが目を背ける。
「んなろッ」
しかし、彼女は腹筋を利用して上体を無理やり起こすと、風を切る男の血管の浮く腕を躱す。何処からか聞こえる安堵の吐息。だが、大惨事は避けられたが二度目が上手くいくとは限らない。まだ彼女の足は男に拘束されたままで、危機は脱していないのだから。
「娘、動くなよ。照準がズレる」
冷徹な声が凜音の耳に届く。それと同時に耳を裂く銃声が鳴り響くと、圧迫していた足が自由になる。
鏑城がロッソの腕に鉛玉を撃ち込んだのだ。先ほどとは違って標的の近くにいるのは驚異的な身体能力を持った女子高生。もし当たっても彼女ならば大丈夫だろうと、三船も頷いての行動だった。
「っぶねぇだろオッサン! 当たったらどうすんだ!」
「その時はこの男に文句を言え。ゴーサイン出したのはこの大男だ」
凜音はキッと三船を見る。やはり、見せもしなかったパンツに金を払わせたことを根に持っていたのか、と一人勝手に解釈し喉を鳴らして威嚇する。
事実そんなことは全く思っていなかった三船だが、何故か睨まれてしまい困惑して思わず愛想笑いをしてしまった。
「そら、次がくるぞ」
鏑城の忠告に凜音は大きく飛びのき、ロッソの闇雲に振るった拳を回避する。
暴風のような空気の奔流が彼女の長い髪を悪戯に弄ぶ。常人なら恐怖で身を強ばらせてしまう攻撃にも凜音は余裕そうに嗤う。その姿は血に飢えた獣というよりかは――。
「あの目は見たことがある。アレはそう、復讐者の目だ」
刑事の経験が凜音の人となりを分析する。
見た目はやさぐれた女子高生の姿だが、彼女の言動の荒さは自己を取り巻く環境への不満というよりは、もっと別の根源的な憎しみから来ているように思われた。それが普通の非行少女との違いであり、それが起因して異常ともいえる運動神経を可能にしているのでは、と鏑城は結論付けた。
「どうした。珍しいな、お前が女に興味を持つなんて。硬派の刑事殿もそろそろ人肌恋しいと思える」
「茶化すな……三船、本当にあの女と関わりはないんだな」
確認するように鏑城は隣の大男に尋ねる。そこに一切の冗談は許さないと言外のプレッシャーを放ってあり、三船は慎重に言葉を選んで答えざるを得なかった。こんな風に静かに誰かを観察している時の鏑城は獲物を狙う狩人だと三船は思う。刑事として悪人の性質を値踏みするような視線は、悪徳の街を管理している三船でさえも気味の悪いものであった。
「何か感じ取ったのか?」
「いや……分からない。なんというか中身と外見が噛み合っていない。見た目は取るに足らない小娘なんだが、そこからにじみ出るものが得体が知れ無さ過ぎる。大体なんだあのデタラメな運動は。四階建てのビルから飛び降りてきて無傷だと? 女子高生の皮を被った化物だと言われたら納得してしまいそうだ」
「ハハハ、お前でもそんなことを言うんだな。まぁ、確かにアレは驚きだが、この街にはそんな常識で測ることのできない魑魅魍魎が数多くいるだろうが」
お前もその一人だが、とは口が裂けても言わない。
三船は目の前で依然攻防を繰り広げている凜音とロッソを見やる。鏑城の指摘通り、あの女子高生は少々おかしい。だが、そのおかしさは彼の指摘したものとは違うものだった。初めて会った時、彼女はこう言った。
『オレが何も知らない初心な女にでも見えるってのか?』
普通、自分が女であることを改めて言う奴はいない。
その部分を槍玉に上げられればそう言うこともあるだろうが、少なくともあの場面はわざわざソレを言うほどの会話を交わしたわけでもなかった。あれではまるで、今まで別の体で過ごしてきた人間が新しい体を手にして思わず出てしまった台詞のようであった。
「流石にソレは考えが飛躍しすぎか?」
三船は自分の考えを否定するように頭を振る。
しかし、三船は知らない。その突拍子もない空想の域を出ない発想が、この世界の真理を突いたものであることに。




