四話
「ハァ、ハァ――ここまで来れば大丈夫か?」
凛音は逃げた先のビルの屋上で一息ついて空を仰ぎ見る。そこには色彩の失われた味気ないものが広がっているだけで、何の癒しも彼女に与えてくれない。それでも、彼女は自分の目に映る無味乾燥な景色がどこか懐かしく、自然と落ち着きを取り戻していくのを感じた。
「あー情けねぇな、自分からけしかけておいてこのザマとか……ったく、多すぎンだよ。どっかのバカのせいでオレにまでトバッチリがきたじゃねぇか」
髪の毛をかきあげて愚痴を漏らす。頭の中では儀同会の下っ端が見せてきたスマホの中のイケメンが自分の無様を嘲笑っている姿が現れ、ぶん殴りたい気持ちが湧き起こる。
逆恨みもいいとこだが、何かを我慢して自分の気持ちを抑えることをしたくない彼女は理不尽とも思える思考に傾倒しがちになっていた。それは彼女が生きてきた末にたどり着いた一つの帰結。誰にも触れられたくない彼女の領域。
「にしても、だ。おー、ここからなら下の様子がまるわかりだな。あっちのビルほどじゃねぇが、ここも高さがあるから見晴らしがいい」
四階建てのビルには落下防止のフェンスすらなく、打ちっ放しのコンクリートは風雨に曝され所々剥がれている。凜音は高所恐怖症の人間の足を竦ませるような縁まで歩き、身を乗り出して先程の広場の様子をうかがう。脆いのか、彼女の足元のコンクリートが欠けて落下する。
まだ混乱は収まらないようだ。男たちの喧騒が木霊しているのを確認すると、地上から姿を見られないように渋い顔で体を引っ込める。
「……しばらくここで時間を潰すか。チッ、面倒くせぇな」
「自業自得だろう。自分で蒔いた種じゃないか」
「――ッ!」
若い男の声に凜音は弾かれたように振り向く。
気付かなかった。自分と男との距離は離れてはいるが、ここに来るには重く軋む扉を開けないといけないのだ。いくら気を抜いていたとはいえ、それに気づかないほど落ちぶれてはいない。
「……何時から居た?」
「君が男たちから逃げるのに無駄に動き回っていた頃には既にここに着いていたかな」
その口ぶりから察するに、どうやら自分の起こした騒ぎを見ていたらしい。そのことに不快感を覚えると同時に、男が件の人物だと気づき拳に力が入る。
「随分な口ぶりだな。テメェのせいで、オレがあんなバカどもの相手をしなくちゃいけなくなったんじゃねぇか」
凜音の射殺すような視線を受け、騒動の元凶である刑部翔眞は不敵に笑う。
面と向かって分かる。コイツは生きていてはいけない奴だ。頭の中で警鐘が鳴り響き、凜音は先の戦いとは比べ物にならないほど相手を警戒する。
「そこまで敵意をむき出しにしなくていいよ。僕は君と争うつもりはないからね」
「うるせぇ、テメェになくてもオレにはあるんだ」
言葉は不要とばかりに相手の意思を否定して、徐々に距離を詰めていく。見た目優男のひょろい体型だが、その佇まいから溢れる陰気なオーラは人を狂わせる何かを感じさせた。今浮かべている笑みもどこか胡乱で、彼の発する言葉全てが疑わしい。
「困ったなぁ。むしろ僕としては君と協力関係を築きたいくらいなのだけれど……どうだい。僕と一緒にこの世界を壊したくはないかい?」
その誘いは甘い蜜のように魅惑的な響きを孕んでいた。しかし、それを一度でも受けてしまえばどこまでも沈み込みそうな、足掻くことすら許されない底なしの沼の気配を匂わせる。見た目の良さも相まって、初心な女なら簡単になびいてしまいそうだ。
「……ハッ、何を言い出すかと思えばくだらない。世界を壊す? いつまで夢を見てんだ。そんなこと不可能に決まってんだろうが。そういうのは中学生までに終わらせとくもんだぜ」
凜音が鼻で笑うも、刑部は真面目な顔で宣う。それはさながら教会の神父のような慈愛に満ちたものだった。
「……かわいそうに。そうやって他者を貶さないと自己を保てなくなってしまったんだね。でも、大丈夫。この世界を壊せば、きっと君は元通りの生活に戻れるさ」
その言葉に凜音は益々怒りがこみ上げてくるのを感じていた。
お前が一体オレの何を知っている。どうしてお前にオレの苦しみが分かると言うんだ。そう言いたげな表情で彼を睨むも、当の本人は涼しげな顔で言葉を繋げる。
「さっきのアレ。随分と彼らに容赦がなかったじゃないか。まるで男そのものを憎悪しているようだ。もしかして、過去に男たちから何か嫌なことでもされたのかな。それなら仕方ない。君にはその権利がある。でもね、あんな小物を相手にしたところで、君の心の奥に居る彼を払拭することは出来ないよ」
彼。
それは凜音にとって最も触れられたくない人物だった。だけど、どうしてだろうか。何故かその人物に関する全ての情報を思い出すことができない。分かるのは絶対に思い出してはいけない、触れてはいけない記憶であるということだけ。
刑部にそれを指摘されたことで一瞬目の前が真っ白になるが、辛うじて残された理性の糸が彼女をギリギリのところで踏みとどまらせた。
「……お前に何が分かる」
「ハハハ、分からないさ。でも知っている。君がどれほど苦労しているか、どれほど前を向こうと足掻いているかを」
「ストーカーかよ。お前みたいなイケメンに付きまとわれるのは女冥利に尽きるのだろうけど、生憎お前はオレの趣味じゃないしお断りだね」
「残念。でも、そういう風に言ってくれるのは悪くない。きちんと言葉にしてくれる分、君は態度ほど悪い子ではないようだ。だから、今日はここまでにしておくよ。あんまりしつこいと嫌われてしまうからね。それは僕の望むところではないし、それに君にとってもそろそろだと思う」
「あん?」
目の前の男の含みのある言い方に凜音は首を傾げる。
すると、彼女の疑問に答えるように男は凜音に向かって歩き出した。そのことに身構えるが、それは杞憂に終わったようだ。彼は凜音の横を通り過ぎるとビルの縁まで進み、ある場所に向けて指をさす。
「アレを見てごらん」
警戒心を解いていない凜音はその行動を訝しむが、こちらに背中を見せる刑部の無防備さにずっと気を張っていたのがバカらしくなってきた。いくら危険な匂いを漂わせていても、その細い体躯に戦闘で負けるはずがない。それにずっと敵愾心を見せても、奴はピクリとも反応を示さなかった。そのことが余計に凜音の彼に対する評価を不明瞭にさせた。
「早くしないと後悔することになる」
急き立てるように言われ、思わず彼の言うとおりに未だ熱の冷めやらない広場を見下ろす。
なんてことはない。先程と同じ、人と人が入り乱れた地上の地獄のような光景。儀同会の面々が弱き人々を蹂躙し、そこに女子供に対する遠慮は見られない。むしろ、そういった弱者を執拗に狙っているようにも見えた。
「で? これをオレに見せてどうしたいんだ」
「ほら、あそこだよ。広場から少し外れた路地裏の近く。悪趣味なチラシの貼ってある……そう、シャッターの降りているところの脇の道……そこに誰がいる?」
――ドクン。
刑部翔眞の示した場所、そこには一匹の蟲がいた。弱々しく地面を這いずり回り、事態の混乱についていくことができずに右往左往している小さな蟲が。
「……」
それを目にした途端、凜音は胸の奥が締め付けられる思いがした。
アレは、拙い。どうでもいい塵芥の存在のはずなのに、どうしてもあの小さきものから視線を逸らすことが出来ない。
「ああ、どうしよう。このまま広場に居たら、いつか男どもに踏み潰されてしまいそうだ。おや? そう言っている間に見るからにヤバそうな奴が彼女に目をつけたみたいだ」
麻薬に手を出しているのか、ふらふらとよろめきながら歩く大男が獲物を見つけた猛獣のような笑みを浮かべて少女に向かっていく。そのことに他の街の住民は気づいていない。いや、気づこうとすらしない。
儀同会の暴れまわる状況に、自分の身を案じて誰かに構っている余裕などないのだ。もっとも、これが平常時であれば救いの手を指し伸ばしていたかは甚だ疑問ではある。
「だから、なんだってんだ。弱い奴が悲惨な目に遭う。そんなの世の理じゃねぇか」
しかし、言葉とは裏腹に凜音は少女の行く末が気になり知らず前のめりになっていた。
「これは君の罪だよ」
重々しく、審判を下す者のように刑部は彼女に言う。
その意味が分からず、凜音は彼に真意を問いただすべく後ろ髪を引かれる思いで向き直る。少し横にずれれば落ちてしまいそうなビルの縁は、まるで世界の果てを表しているようだ。
「君が彼らに喧嘩を売らなければこんな事態にはなっていなかったんだ」
「なっ――それは違うだろ! 何をしたかは分からないが、そもそもお前があいつらを焚きつけたんだろうが!」
「それでも秩序はあった。理性はあった。僕を捜すために余計な血が流れることはなかった。君が余計な煽りをしなければここまで大きな暴動にはならなかった。聞こえないかい? 下から君を捜す声がするよ?」
彼の言い分に凜音は何も言い返せない。
分かっているのだ。この男は目の前で少女が死のうが辱められようが何とも思わない。ただ、凜音を追い詰めることさえ出来れば、その責任がどこにあろうと関係ないのだ。今更ながら、彼の姿が不吉を歌う悪魔のように見えた。
「君は優しい子だからね。目の前で小さな命が散ってしまうのは耐えられないだろうに。ほら、行かなくていいのかい。早くしないと――またあの惨劇の繰り返しになるよ」
刹那、背後から銃声が鳴り響き凜音は思わす振り返る。ここからでは事態が掴みにくい。今まで雷管の弾ける音がしなかったのが不思議なくらいだが、とうとう誰が放ったか鮮血の花を咲かせる事態にまで発展したらしい。
「ち――っくしょー!! テメェ! 後でぶっ殺してやるからな!」
そう言い残すと彼女は迷いなく四階建てのビルから飛び降りた。
逢坂凜音は好きなことをして生きたい。それがどれだけ周りに迷惑をかけようとも、他者を労わるなんてことはしたくない。自分だけが楽しければいい。自分だけが幸せであればいい。
だけど、それでも小さくて脆いものは守りたいと思うのだ。特に、大人たちに見捨てられた子供たちを。地べたを這いずり回る弱き者を。
「フフ、やっぱり君は面白いなぁ! こうも迷わず飛び出せるなんて、きっとヒーローの素質があるに違いない!」
刑部翔眞は両手を上げて彼女を尊ぶ。そこに邪心は存在しない。あるのは好きな子にイタズラしたくなるような純粋な好意。
「ゴメンネ、弄ぶようなことをしてしまって。だけど、分かってほしいんだ。これも君を思ってのことなんだって」
屋上に一人残された男は誰に聞かせるでもなく懺悔の言葉を口にする。それは世界に対する呪詛の如く歪んだ愛情を伴って、渇いた風に運ばれ街に揺蕩うのだった。




