一話
世界が灰色に包まれている。
目を覚ませば空は曇天に覆われていて、まるでこの世が終わりを迎えたかのような寂寥感に体を寒さとは別の震えが襲う。
逢坂凛音は路地裏にだらしなく投げ出された体をダルそうに起こしながら、身の回りを確認して最後に自分の顔をペタペタと触った。どこも傷ついてはなく、汚れているのは地面に直接座っていたせいで制服のスカートが砂利とよくわからない染みで濡れてしまっていた。
まだ頭がぼーっとする。覚醒したばかりの意識は水中に潜った時のようにおぼろげな視界で夢を見ているみたいだ。ふわふわした感覚に浸りたいところだが、自分がどうしてこんな場所にいるのか不思議に思い、凛音は覚束無い足取りで通りに出てみた。
埃っぽい空間から広がる景色は悪趣味な看板の連なる場末の歓楽街のようだ。
昼間ということもあり人通りは少ないが、夜になれば耳を塞ぎたくなるほど騒がしくなるに違いない。そう感じさせるだけの惨状が道路に散らばるチラシや嘔吐物の散乱具合で見て取れた。
「あー……」
自分でも驚くほど低く掠れた声が出た。
表の通りを見ても何故自分がここにいるのかを思い出すことができず、途方に暮れてしまって思わず声が出てしまったのだ。
とりあえず乱暴はされていなかったのが救いか。女の身でこんな路地裏で眠りこけてしまっていたのかと思うと、自分の危機感の無さに怒りを通り越して情けなさに涙が出てきそうだ。
このままここに突っ立っていると浮浪者に見つかり面倒なことになりそうだと思い、何処か安全な場所はないかと頼りない記憶を呼び起こす。
それでも出てきたのは断片的な、とてもじゃないが信頼するには無謀とも思える代物だった。
「どうすっかな。金もねぇし、頼れるようなダチもいねぇし、こんな明るいうちからオッサンどもから金を巻き上げるわけにもいかねぇし……ああ、クソッ! なンでこんなことになったのやら」
明るい色の髪をかきあげて苛立たしげに地面を蹴る。
不遜を形容したかのような口から犬歯を覗かせて腹を空かせた野犬のような唸り声をあげる。
せめて何かないかとスカートのポケットに乱暴に手を突っ込む。すると人差し指が何か堅いものに触れた。
「あん? ンだこれ」
それは無地のカードであった。
凛音は太陽に透かして見るように何も書かれていないプラスチックの物体を頭上に掲げる。
しかし、当然のことながら隠されていた文字が見えることもなく、ただ鈍色の空に同化しそうなだけで彼女の好奇心を満たすことはなかった。
「チッ、なンもねぇのかよ!」
理不尽な理由でぶん投げられたカードは軽い音を立てて地面に叩きつけられる。そこに向かって追撃の唾でも吐こうとしたところで、ふと心の片隅で注意するような声が聞こえたような気がした。それは何処かで聞いた声。聞き慣れた声であったのだが、どうしても声の主の顔を思い出すことができない。
「……ま、まぁ、何かに使えるかもしれねぇし持っといておくか」
気にはなったが、直感を信じて捨てたカードを拾いなおす。
どうせここでは使うことがないと分かっていても、それでも心のザワつきがカードをこのまま路上に捨て置くことを許さなかったのだ。
「あーあ、せめてこれがキャッシュカードだったら良かったのになぁ」
腰を曲げて拾ったカードはそんな彼女の願いを嘲笑うかのように艶やかな表面を反射させて鏡のように世界を映し出す。そこにある世界も彼女が見ている景色となんら変わることなく空虚なものであった。
それは今の彼女の状態を表しているようで背中を嫌な気配が通り過ぎる。
「やめやめ! 辛気クセェったらありゃしない。オレは自由にヤりたいように生きるんだ。誰にも縛られず、面白可笑しく生を全うするんだ」
誰にともなく宣言すると、カードをポケットに戻すと大手を振って通りを大股で闊歩する。
店の準備をしているハゲ頭の男が訝しむようにこちらを見ているが気にしない。そんな他人の視線なんか気にしていたら息苦しくて敵わない。
世界はいつだってそうだ。誰か声の大きい奴に従うことばかりで、己を出した個人なんて排斥されるのが常だ。ここは自由に欲望をさらけ出す場所じゃねぇのかよ、と凛音は辺りの下品な内装の店を睨みつける。壁一面に並ぶ写真の中の女は一様に笑顔を浮かべているが、果たしてその中の何人が本心からの笑みであるだろうか。もしかしたら全員仮面をかぶっているのかもしれない。
女を商売道具にしている店に思うところがないわけではないが、それも運命の果てに決められたことであるだろうから凛音は無言で見つめるだけであった。
「お嬢ちゃん、いくら昼間だからってこんな場所に来るもんじゃないぜ。学校はどうした?」
背後から野太い男の声がして凛音は振り返る。
そこには筋骨隆々の日に焼けた偉丈夫が仁王立ちで彼女を見下ろしていた。
「ああん? オレが何処で何してようが勝手だろうが。それとも何か? オッサン、オレが何も知らない初心な女にでも見えるってのか?」
「いや――ああ、そうだ。ひ弱な雛鳥のように見える。いつまでたっても親離れのできない不出来な雛鳥にな」
一度否定をしかけた男だったが、凛音の態度に何かを見たのか彼女を煽るような言葉をつむぐ。男としては未成年がうろつくことのリスクを考えての注意喚起を促したつもりだったのだろうが、生憎とそれを理解出来る頭を持ち合わせていないのが彼女である。
すぐさま好戦的な表情に変わり、短いスカートが捲れるのも気にしないハイキックをお見舞いする凛音。
「……おい、もう一度言ってみろ。オレが何だって?」
話し合いなど無用とばかりに遠慮なく放たれた蹴りは男の脇腹を強かに打ち据えた。口よりも先に足の出る彼女に、男は苦悶の表情を何とか飲み込み諭すように声を和らげる。
「いきなり蹴りとはひでぇじゃねぇか。ああ、俺が悪かった。お前さんはそんじょそこらのガキとは違うようだ。でもな、ここいらを統括している奴のメンツもある。変に動き回って厄介事を起こされても困るってもんよ」
「……チッ」
凛音は舌打ちをすると上げた足を戻して、ムスっとした顔で男に手を差し出す。
「なんだ、これは?」
男が困惑したように眉根を寄せる。見た目の厳つさとは異なり、性根は穏やかで優しいのかもしれない。
「金。オッサン、オレのパンツ見ただろ」
しかし、男の優しさとは裏腹に凛音の性格の悪さが際立つ。
先に足を上げたのは彼女だろうに、それをおくびにも出さずに金銭を要求するのは厚顔を通り越して悪魔のようであった。一体どういう考えをしたらそういう発想に至るのか、自分以外の人間など雑多なものとでも思っているのだろうか。
「ハハ、ああそうだな。見たのかもしれんな。だからこれを受け取ったらさっさと家に帰るんだな」
「キモ。女子高生の下着見といて何笑ってんだよ」
「……」
どこか悲しげな表情をして紙幣を何枚か渡す男に凛音は辛辣な言葉を浴びせる。渡されたブツを乱暴に奪い取ると目の前で金額を確かめる彼女に男は不思議そうに言葉をかける。
「お前さん。本当にこんなところで何をしていたんだ? ウリ行為をしているようには見えんし、もしかして既に何か事件に巻き込まれているんじゃないだろうな」
男が鋭い視線を投げるが、凛音はそんなことなど何処吹く風と軽く受け流す。
その泰然とした態度に男も安堵するが、それでも年長者として心配は尽きないらしい。スマホを取り出すとどこかに電話をかけ始めた。
「ああ、俺だ。何か変わったことがなかったか? いや、ソレとは別にだ。なに、少し気になったことがあったからな……うん? モルグの爺どもが? 全く次から次へと問題を起こしやがって。分かった。そっちで対応できるなら任せる。頼んだぞ……ふぅ、どうやらお前さんは――っておいおい何処に行くっていうんだ」
「ったく、テメェが家に帰れっていったんだろうが。忘れてんじゃねぇぞボケが」
凜音が煩わしそうに後ろを振り向いて答える。
帰るあてなどないがここを離れようと思っていた彼女は男に八つ当たり気味に暴言を吐くと、獣の如く鋭い視線をぶつけた。
「そう睨むな。このまま帰ってもいいがちょっと待て。この道を行くと儀同会が出張っているから他の場所からここを出るんだな」
「るせぇ。オレがどの道を通ろうが勝手だろ」
「そういうわけにはいかないんだ。今奴らは血眼になってある人物を探しをしている。そんなとこに女がノコノコ通りでもしたら口では言えねぇような酷い目に遭わされるぞ」
「ッハ! 余計なお世話だオッサン。もしオレをどうこうしようとする奴がいたら金玉蹴り潰して使いもんにならなくしてやんよ」
男の忠告も聞かず凜音はスカートを翻してその場を後にする。
後ろから心配するような声が聞こえるが、彼女は歩みを止めることなく突き進む。それはまるで嫌なことから逃げているように見え、しがらみから解放された野良猫のようでもあった。




