九話
目の前で私の嫌いな暴力が振るわれている。
大男とお姉さん。どちらも嫌な笑顔を顔に貼り付けて、互いに血が出るのもお構いなしの殴り合いに発展している。肉と骨のぶつかる音は鈍くて生々しい。
それを聞いていると私は昔を思い出す。まだ私に善悪の区別が付いていなかったあの頃。今にして思えば、私はなんて嫌な思いをしていたのだろうか、と小さくなった胸に手を当てて悲しむ。
「いい加減ぶっ倒れろよ!」
何度目かの急所への一撃。
しかし、ロッソはまるで堪えた様子もなく気色に満ちた表情で拳を繰り出す。薬物の影響で極端に痛覚が鈍くなって、凜音の攻撃が通用していないようだった。口から垂れた涎の糸を引かせながら、男は華奢な女子高生に追いすがる。その絵面はとても危険な匂いを帯びていて、常識を捨てた野次馬は歓喜の声を漏らす。
「おい、見てねぇで援護しろ! テメェ、銃持ってんだからさっさと撃ち殺せ!」
凜音は鏑城と三船に向かって罵声を浴びせる。
そうは言っても警察の規則上むやみに発砲はできないため、鏑城は彼女に向かってその場から離れるよう忠告するだけであった。
「文句を言うなら貴様こそ男から離れろ。後は俺たちが何とかする。未成年の非行少女は補導されて自分の行いを省みるんだな」
「ハッ、そんなヤワそうな奴が何言ってんだ。オレじゃなきゃコイツ黙らせられないだろうが。つか、なんでコイツこんな丈夫なんだよ!?」
うおりゃ、と掛け声とともに放たれた拳は男の頬を抉るが、それでもビクともせずに凜音は舌打ちをして後ろに下がる。ふと、背後に人の気配がして顔を少しずらして確認すれば、なんとそこには先ほど助けた少女がまだ逃げずにこちらの戦いぶりを見ていた。
「って、おい! 誰か連れ出さなかったのかよ!」
凜音はそのことに思わず声を荒らげてしまう。見ず知らずの少女の命がどうなろうと構わないが、せっかく馬鹿なことをして助けたのだ。それだったら最後までしっかり救われて欲しいと思うのは傲慢だろうか。
「どうなってる? すぐに部下を送ったんじゃないのか」
三船は鏑城に状況を尋ねた。犯人を捕まえることに長けている鏑城だが、まさか警察の職務の基本である人命救助を怠るとは思えなかったからだ。
「送ったとも。だが、何故だ。報告が未だに上がらないし、そもそも、どうしてあそこに警察の人間が誰もいない?」
こうなっては自分が直接助けに行くしかない。幸いにしてロッソは凜音に釘付けでノーリスクで救助ができる。一般人を盾にして人助けをするのは流儀に反するが、効率や適材適所を考えれば仕方のないことだ。
「三船、戦闘に関わらない程度に現場を見守っていろ。事後処理が面倒になる」
「だが、あの嬢ちゃんの言うとおり援護は必要だぜ。あの野郎、何かやべぇ薬にでも手を出したのかいつもと様子が違いすぎる」
「それでもだ。相手は曲がりなりにも儀同会の構成員だ。顔役のお前が手を出していい相手じゃないはずだ」
「ご心配どうも。だがな、代表として締めなきゃならねぇところはあんのよ。特にラリって前後不覚に陥っている馬鹿が相手なら尚更な。どうせ芝居で警察の世話になって迷惑をかけるところだったんだ。人助けをして問題になったとして誰が責めるよ?」
三船はニッと笑うと、鏑城の静止も聞かずに凜音の加勢に向かった。
「あのバカ。そんなだから、いくら策謀を巡らしてもそれ以上の立場にいかないんじゃないか。全く、さっさと上になって街の風通しを良くしてもらいたいってのに。まぁいい、こちらも何か嫌な感じはするが子供の救出に向かうとするか」
嫌な感じ。それは、今この場にいる警察官の数が広場に到着した時よりも少なくなっているということ。相棒の笹倉の姿も見当たらず、鏑城はこの騒動に何者かの作為を疑った。
思えば、鳳会長の殺害の報が出てからすぐに事件の情報はシャットアウトされてしまっていた。グループの関係者から聞き出した話から刑部の仕業だというのは当たりがついたが、それ以上のことは知りようもなかった。この騒動も会長の仇討ちと息巻いている儀同会の暴走によるもので、どこか事件そのものを内々で片付けようとする意思を感じずにはいられない。
「刑部翔眞。奴は一体何を目的に動いている。これも奴の仕業なのか……?」
少女の元へ駆けていく中、鏑城は疑問を口にする。
それとともに言いようのない不安が侵食していくように背筋を這い登ってくる。それは不思議なことに少女に近づけば近づくほど強くなってきた。見た目はみすぼらしく汚いが、それに似合わない可憐さ。近くで暴れている凜音と比べて三、四歳離れているように見えるが落ち着きがあり、彼女と対照的な黒い髪。その彼女が一心に凜音の戦う姿を見つめている様は、兵士に加護を送る女神のようであった。
しかし、そのある種の神々しさとは裏腹に鏑城は徐々に焦りはじめる。
おかしい。距離的にはさほど離れているわけでもない。それなのに、どうして俺はあの子供に近づくことができないのだ。
それに気づいた瞬間、鏑城の姿は広場から消え失せた。
唐突に、ビデオの編集のように存在そのものが騒動の中からいなくなったのである。
だが、その光景を見ていた者はいない。見ることを許さないとでも言うかのように、凛音に助け出された少女に関わる全てのものにフィルターがかかっているかのようだ。
「あ? 鏑城の奴、何処にいった?」
早速ロッソにタックルを決めた三船は後ろを振り返り、今しがた一緒にいた刑事の姿がないことに気づく。まだ少女は凜音の後方にいるため、救出に成功したという訳ではない。仕事を途中で放り出すなんて絶対にありえない。何か緊急の事態が起こったのかと身構えるが、すぐに反撃してきたロッソに意識を割かれ
心配を意識の外に手放す。
「オッサン、よそ見してんな。つか、コイツご同業じゃねぇのかよ」
「そうだが気にするな。後でなんとかするさ!」
凜音が三船に悪態をつくが、そんなことなど気にしないとでも言うように男は行動で頼りになることをアピールする。街の顔役になって以来誰かにそういう気遣いをされることなど久しく、どこか新鮮な気持ちになった三船はいつも以上に気合を入れて中毒者と組み合う。
「ったくよぉ。ロッソ、テメェ誰かにクスリ盛られたな? いつもとは比べ物にならないほどぶっ飛んでっぞ」
「ぐああああああああ……」
言葉にならない空気の振動がロッソの口から漏れ出る。正気を失ってしまっているため説得にも耳を貸す気配もない。そうなると、この男を鎮めるためには気絶させるほどの強い衝撃を与えるか――殺してしまうしか方法はない。
「助けたとしても、こりゃ廃人ルートだな。チッ、刑部の仕業にしてはどことなく感じが悪い。ま、アイツも性根は腐ってんだろうが……お嬢ちゃん! 俺がコイツを抑えているから背後からきっついのお見舞い出来るか!?」
「あん? 出来なくはねーけど。さっきのでダメだったのにイケんのか?」
「やってみねぇと分からねぇだろ。それに、今度はすぐに体を拘束するから先ほどのようにはならん」
初っ端に凜音がぶちかました蹴りを食らってもダメージを受けていないロッソに対処法が思いつかないが、何度でもやらねばならない。そうしなければ、本当にこの男を殺さなければいけなくなってしまう。
鏑城が指摘した通りに甘さのある行動。この期に及んで、三船という男は生かすことを選ぶのだった。
「オッサンが言うなら遠慮はしねぇけど――そんじゃまぁ、一生眠っとけや」
しかし、ここで一つの誤算が生じる。
あくまで三船はロッソを助けるために凜音に気絶させることを頼んだわけだが、生憎と彼女にそんな意図を満たせるだけの配慮が出来るはずもなく。当然のことながら、自分に向かって暴力を振るった相手を渾身の力で叩きのめそうとするのだった。
「あっ――」
誰の言葉か。
凜音がロッソの頭に向かって腕を振るった時、彼女の右手に鈍く光る金属が見えた。




