神様は人を裁けない
ところで、宗教には《地獄と極楽》という考え方があって
「悪いことをすると地獄に落ちる」
と脅す。
一方で、親鸞上人は
「善人でさえも浄土へ往生させていただけるのだから、悪人はなおさらだ(善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや)」
と云う。
一体どちらが本当だろうと思って、尋ねてみることにした。
すると大神様は即座に
「ご安心なさい。神の世界には法律も裁判所もありません。
したがって人を裁く神などいないのです。
だが、人は自分の生き方に責任があって自然の掟を守らなければ報いを受けます。
たとえば、幼い子供がいたずらをして熱湯を被ると大火傷をします。
子供はそんな掟なんか知らなかったと云っても許してもらうことはできません。
また、薄着で登山をしていたら突然の大雪で凍死したとします。
天気予報では大雪だなんて云っていなかったと苦情を云っても、それでは生き返らせてあげようとは誰も云ってくれないでしょう。
このように、知っていてしたことでも、知らないでしたことでも、自分からすすんでしたことでも、人に云われてしたことでも、やった本人が結果を受けなければいけません。
《地獄・極楽》の思想は、信仰を勧める上の方便ですが、だからといって悪いことをしてもよいということにはならないのです。」
と云われ、さらに続けて
「神は常に中立でなければならないと云いましたが、
たとえば、お賽銭を多めにお供えして
「明日は娘が楽しみにしていた遠足です。どうか良いお天気をお願いします」
と懇願する母親がいます。
その一方では
「長い間の日照り続きで作物は全滅します。お願いです、どうか雨を恵んで下さい」
と雨乞いをする多くの農夫がいます。
そのどちらかの云うことを聞けば、一方からは
「あれほどまでにお願いしたのに・・・神も仏もあるものか」
と逆恨みされるでしょう。
神の立場とはそんなもので、雨を降らせてはいけないし、上天気を続けてもいけないのです。
これで、人を裁くどころか、神は公平で中立でなければならないということがおわかりいただけるでしょう。」
日頃は物静かな神様の雄弁に、いささか圧倒されたが、だからこそ中立で公平な神様の必要性を痛感する。
だから、間違っても一方だけの話を聞いて判断したり、早合点して同情するようなことは慎まなければならないと、肝に命じる。