神は人によりて貴し
数ヶ月が過ぎて、神の見習いにもだいぶ慣れてきた。
このところ、人間社会は随分騒がしくて、この分だと神様が不要になることは無さそうだから、私の失業の心配はないだろう。
だが、自分の意見は云わない、口も手も出さないという宿題は克服できないから、当分の間神様に昇格することも無い。
と思っていたら、この間、ありがた婆さんに出会うことができた。
この婆さん、何でもありがたがってそれを神様のせいにしてしまう。
こちらは大神様との約束があるから、ただ見ているだけで手出しはしないが、
「天気がよくてありがたい」
「雨が降って作物が育つから・・・」
「暑いときは着るものが要らないから・・・」
「寒ければ来年は豊作になるから・・・」
とありがたがり、
「神様がしてくださるから」と手を合わせるのである。
いつもこんな風だから、この婆さんを憎む人はいない。
周囲に天敵がいないから、婆さんは常に安全で、95歳という寿命を満喫している。
この婆さんを見ていると、大神様の宿題の意味がなんだかわかるような気がしてくる。
昔、何かの本で「神は人によりて貴し」という文を読んだ覚えがある。
当時はよく理解できなかったが、神を信じて身を慎む人と、神を恐れずに暴挙をする人とでは、その結果に大きな差が生じる。
神が、えこひいきをしなければ、それぞれの行動に正しい結果が出るのだから、神は人によりて貴しである。
だから、神はどちらにも味方しない中立であるということが前提になる。
この、ありがた婆さんのような人ばかりなら神も楽でいいのだが、あまり楽になり過ぎると失業を心配しなければならなくなるから、少しは我が儘な人も居てくれなくては困る。
と、これは私の我が儘か。
世の中には「人は鏡だ」と云う人がいるが、他人には同情やお世辞があるからいびつに写る場合が多い。
だから人はいびつな鏡である。
その点で、「神は公正だからまともに写る」と、云いたいところだが、見習いの私にはそれが宿題である。
だから「神様は私の間違いを移して見せてくれる鏡だ」と感謝されるようにならなければと思う。