無病息災の願い
「病気をしないで無事でありたい」は無理な願いで、
生涯を通じて怪我や病気を経験しない人は一人もいない。
だから、神の見習いとしては「そんな無病息災なんてとても聞けない」と突っぱねたいところだが、
神様は万能で何でも聞いてくれると思われているし、大神様から自分の意見を出すことは厳しく戒められているから、ここが我慢のしどころである。
しばらくは聞かぬ振りをしていようと思う。
だが、それにしても人間は何と我が儘で勝手な生き物だろう。
どんな動物だって生きるためには他の命を餌にするが、自分が飢えない限り決して他を願うことはない。
だが、人間は無用な殺戮を好む。自分の都合次第で同類を襲い、兄弟でも殺し合う。
それでいて「自分の安全だけは護ってほしい」と神に縋るのである。
また、どんな動物でも怪我や病気はする。
だが、そのほとんどは自分で治す。
どうしても治らない重症なら命を終える。
だから、医者に頼ることも無いし、神に頼むこともない。
動物の世界には神様はいない。
我が儘者が居ないので神の仲裁がいらないのである。
もし、人間に神様を必要としない社会が実現すれば、随分静かになるだろう。
そうなれば、私のような神の見習いも失業である。
今、百歩譲って、無病息災を実現するとしよう。
すると人間はどうするだろう。
いつの頃からか、人間は自己管理能力を放棄してしまっている。
暴飲暴食が健康に悪いと知りながらも、うまいものを見ると食い気を抑えられない。
すでに酔っ払っているのに自分をセーブすることができないから、酒が酒を飲むということになる。
無病息災が適えられて、どんなに無理をしても病気にならないなら、自分は良いが周囲に迷惑がかかる。
自分に痛みが伴わなければ何でもするのが人間だから、世の中が、そんな我が儘を野放しにしておくわけはないだろう。
また、怪我や病気の治療が長引いて、医者や薬では治らないからなんとかしてほしいと頼んできても、神が医者の領分にまで手出しをすると公平に欠ける。
だから神は、みだりに感傷的になったり、口や手を出すことを禁じられているのである。