雨宿り〜後編〜
え〜と、どこまで話しましたっけ?
そう、彼の奥さんがガンになったところですね。
必死の治療も虚しく、彼女はステージⅣと診断されました。もともと、彼女は乳がんだったのですが、肺にまで転移していました。
引き続き、抗ガン剤による治療となりました。
抗ガン剤は、もちろんガン細胞を攻撃するものです。ですが、正常な細胞をも攻撃してしまいます。彼の愛した彼女の美しかった髪は、無残に抜け落ち、美しかった目も、クマが目立つようになり、常に吐き気に悩まされるようになりました。それでも、ガンを治せるものではなく、ガンの進行や転移を抑える事くらいしかできません。
その姿は、あまりに痛々しいものでした。
彼は嘆き、自分が治療に当たれない事を妻に懺悔し、泣きました。何が名医だ、と。何が現代のアスクレピオスだ、と。
ですが、彼女は、いつも笑顔で彼を慰めました。自分の方が辛いはずなのに…
苦しいはずなのに…
苦しい闘病生活が続きました。ですが、その甲斐も虚しく、彼女に使える抗ガン剤がなくなりました。それまで使っていた抗ガン剤や、他の抗ガン剤によって、アレルギー反応を起こすようになったのです。
担当医師からは、緩和ケアを薦められるようになりました。
そんな時、彼は一つの治療法を思いつきました。彼にしかできない治療法でした。
彼は、彼女をありとあらゆる方法で殺す事にしたのです。
彼の手にかかれば、彼女は死ぬ事はありません。他の生物で色々試した結果、次に致命傷を負わない限り、彼の処置が原因で死ぬ事はないのです。
さらに、例えば、心臓を抜き取ったとしても、その生物はまるで、心臓があるかのように生き続けることも確認できていました。その事から、彼の手によって臓器が抜き取られたとしても、その臓器の機能を持った『見えない臓器』が存在するのではないか?と考えていました。
そこで、彼は、次の致命傷を避けるため、致命傷を負いそうな部分を全て除去する事で、彼女の延命を図ろうと、そう考えたのです。
彼は、彼女を連れて、病院を去りました。彼女のいたベッドに辞表を置いて…
彼は、自宅の浴室で彼女に麻酔をかけました。
そして、彼女の身体を開き、ガンが転移している肺を取り除きました。事故や事件で失血死しないように血液を全て取り除きました。
胃を
心臓を
大腸を
小腸を
肝臓を
膵臓を
ありとあらゆる臓器を…
取り除いたのです。
彼女の身体は、カラッポになりました。彼は、まるでミイラ作りだな、と思いながら、取り除いた臓器を缶に入れていきました。すべての作業を終えて、開いた傷を縫合すると、彼女のお腹はペチャンコに凹んでいました。それが、少し悲しかったのを今でも覚えています。
ですが、彼の計画通りに事が進めば、余程のことがない限り、彼女は死ぬ事はなくなるはずでした。彼は、祈るような気持ちで、彼女の麻酔が切れるのを待ちました。
…麻酔が切れて、起き上がった彼女が彼の名を呼んだ時、彼はその瞬間のために、その能力を授かったのだと理解し、涙を流して神に感謝しました。
それから、彼にとって幸せな生活がしばらく続きました。ウィッグを付けた彼女は、闘病生活が始まる前の姿そのままに、透き通るような白い肌がその美しさを際立たせました。
病院を辞めた彼は、朝から晩まで彼女と一緒に過ごしました。
幸せでした。
しかし、彼は自分が試してきた生物が、死なない事は確認していましたが、その後、どうなっていくのかは確認した事がありませんでした。それが彼にとっての誤算に繋がりました。
彼女の治療を行ってから、数週間が経った頃です。彼女から腐臭が漂っている事に気付きました。心当たりは全くありませんでした。
もちろん、胃も食道も腸も除去されていますので、彼の知らないうちに彼女が何かを口にしたとしたら、消化される事なく、排出される訳でもないので、お腹の中で腐っていく可能性は、十分ありました。
ですが、彼は臓器摘出後、彼女に自分の能力と彼女に行った事すべてを、まるで懺悔するように彼女に伝えたのです。彼女のショックは計り知れないものがあったと思いますが、理解はしてくれたと思います。納得していたかどうかは別ですが…
そのせいか、彼女の口数が減っていきましたが、彼女を溺愛していた彼は、彼女に軽蔑されたとしても、彼女が生きている、その事が大事だったのです。
すいません。少し、話がズレましたね。
ともかく、そこまで事情を知っている彼女が勝手に何か食べるという事も、考えにくい事でした。
そして、彼は一つの仮説に辿り着きます。
そう、彼女自身が腐っていっているのではないか?という仮説です。
お客様は、腐敗するという事がどういう事かご存知でしょうか?
腐敗というのは、細菌や微生物により有機物が分解、変質していく現象のことです。
細菌や微生物を攻撃するのは白血球です。彼の処置によって、血が廻らなくなった身体に入り込んだ細菌の増殖を止めるのは何になるのでしょう?
他の臓器のように無くなっても、まるでそこに存在するように見えない白血球が存在するのでしょうか?
彼は、彼女に事情を話し、再び彼女の身体を開きました。
彼女の腹を開いた瞬間に溢れ出る激しい腐臭。彼の仮説は正しかったのです。彼女の腹の中の肉は、腐り始めていました。
彼の処置によって、彼女が死ぬ事はありませんでしたが、その処置の結果、起きる腐敗という現象は、抑える事ができていなかったのです。
そこで、彼は勘違いに気付きました。
臓器を抜いても、機能が失われないなど、彼の都合の良い妄想に過ぎなかったのだと…
名医などと呼ばれ、いい気になって忘れていたのです。彼の能力は、単なる能力の欠如であった事を…
彼の処置により、臓器や血液を抜いた時、その機能が失われないのではなく、ただ死なないだけだったのだと…
彼は、臭気によって込み上げる吐き気と後悔と戦いながら、彼女の内側の腐った肉を刮ぎ取りました。目に見える腐肉のほとんどを取り終えた時、一つの見落としに気付きました。
彼女の口数が段々と減っていた事に思い当たったのです。
そう。脳の腐敗の可能性です。
お腹の中の肉が腐っていたのと同じように、脳も腐っている可能性が高いのです。
ですが、彼は、その事を敢えて考えないようにして、処置を終えました。
勝手な話ですが…、脳の腐敗に限界が来て、彼女が彼女でなくなるその日まで、彼は彼女との時間を大切にしたいと考えたからです。
彼は、目覚めた彼女に何も問題なかったと告げました。
その日から、彼は彼女とずっと話をして過ごしました。彼女の話せる文章は、少しずつ短くなっていきました。それでも彼は、思い出話や未来の展望、そして、自分がどれだけ彼女の事を愛しているかを話し続けました。彼女もそれに応え続けました。
しばらくすると、彼女の話す内容の中に意味を成さないフレーズが入るようになりました。二人の会話も少しずつ短くなりました。それは、彼女の話す内容が短い事や意味を成さないせいもありましたが、大半は彼が途中で泣き出してしまうため、会話を切り上げざるを得ない事が原因でした。
最終的に彼女は、かなり悪くなった滑舌で、多くの人に名医と崇められる人と結婚できて幸せだった、といった内容か、意味不明な内容しか話さなくなりました。
彼女の脳の限界を感じた彼は、泣きながら、彼女に今までの感謝と謝罪をした後、彼女の脳の除去を行うことにしました。
頭蓋を開いた瞬間に湧き上がる腐臭…
お客様は、その時の彼の気持ちが想像できますか?
腐敗した部分を取り除いても、どんどん腐っていくであろう妻の身体。すでに会話もままならない状況です。いっそ死なせてあげたいと思っても、自分では殺してあげる事も出来ない。
このまま、彼女の肉が腐り、朽ちていっても、彼女は白骨になっても生き続ける事になるのです。
彼に出来る事は、腐敗の進行を少しでも遅らせて、一緒に過ごす事と、誰か第三者の手によって、彼女を殺してもらう事だけです。
彼は、脳の摘出後、少しでも腐敗の進行を遅らせるために、そのうち、朽ちていくであろう彼女の眼球も外しました。
そして、彼は今でも、生きながら腐っていく彼女の世話をしながら、彼女を殺してくれる第三者を探し続けているのでした。
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マスターは、そこまで話して静かに微笑んだ。店内に流れる優しいBGMが、やたらと耳に付いて離れない。
なんなんだ?
なんでこんな話を聞かされなきゃいけないんだ?
私は、追加で頼んだソルティドッグを一気に飲み干した。まるで味を感じない。
腐敗を少しでも遅らせるために…
その言葉が頭の中で何度もリピートされ、ひどく冷房の効いた店内と、まるで体内を消毒するかのようにアルコール度数の高い酒を飲み続けている女性の存在を思い出した。
私は、カウンターの奥に座っているスピリタスを飲み続けている髪の長い女性を覗き見た。
相変わらず、季節外れの長袖から出ている手は、血が通っていないかのような白さだった。
ゴクリ。
自分の唾を飲み込む音が、大きく響いた気がした。その音に反応したのか、女性がゆっくりとこちらを振り向く。慌てて、目を逸らしたが、一瞬見えた彼女の眼窩に暗い穴が空いているように見えた。
「…三杯目は何になさりますか?」
空になったグラスを見て、マスターが微笑みかけてくる。
私は、マスターの微笑みから逃げるように俯いた。
…震えが止まらなかった。
ゴクリ。
再度、唾を飲み込み、ようやく声が出せた。
「…なんで、そんな話を…私に…したんですか?」
マスターは、静かに微笑み、カウンターの下から何か取り出して、私の目の前に置いた。
…バットだった。
「これは、私が初めて猫を打ちのめしたバットです」
そう言って、カウンターの奥の女性を見た。
…とても、優しいが、どこか哀しげな眼差しで、女性を見つめていた。
「もう、おわかりですよね?…お願いします。彼女を殺してやってください…」
「…っうああぁぁぁああぁぁぁ〜」
限界を感じた私は、絶叫しながら立ち上がると、なけなしの一万円札をカウンターに乱暴に置くと、カバンを掴み、店から飛び出した。
外は、まだ雨が強く降っていたが、関係なかった。
私は、必死に走った。
とにかく、あの店から離れたかった。服が濡れようが、タバコを忘れた事に気付こうが、何もかもがどうでもよかった。とにかく夢中で走った。家に辿り着くと、すぐに鍵を掛け、廊下に濡れた服を脱ぎ捨て、震えながら、布団に潜り込んだ。
目を閉じると、カウンターの奥に座っていたゾンビが穴の空いた目でこちらを見ている様子が、鮮明に浮かぶ。吸い込まれそうな暗い眼窩でこちらを見ている様子が…
私は目を閉じる事も出来ずに、ずっと部屋のカーテンを見つめていた。そのまま、一睡もできずにカーテンの隙間から光が漏れてくるのを待った。朝になり、会社に病欠の連絡を入れた後も、一日中震えていた。
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…あれ以来、私は折り畳み傘を手放さなくなり、最寄り駅から一つ過ぎた駅で降り、一駅分歩いて帰るようになった。
今でも、雨が降ると彼らの事を思い出してしまう。ずっと忘れていたいのに…
彼女は、誰か第三者の手によって、死ねたのだろうか?それとも、今でも、あのバーで誰か殺してくれる第三者を探し続けているのだろうか?
一度、考え始めると気になってしまうが、もう一度、あのバーに行くくらいなら、知らないままでいい。
そう…
知らない方がいい事も世の中にはあるのだ。
そして、今日も私は、家に帰るために一駅分の距離を歩く。
きっと、明日も。明後日も。そして、その先も…
雨宿り 完




