雨宿り 〜前編〜
駅を出たら、雨が降っていた。
強い雨音と、水が流れるドドドという音が駅構内に響き渡っていた。湿度のせいか、じっとりと蒸し暑く、シャツが汗ばんでいるのを感じた。
会社を出た時点で、雲行きは怪しかったのだから、当然と言えば当然なのだが、ギリギリ保つだろうと置き傘を持たない事にした私は、結果的に賭けに負けた事になる。
それにしても、ここまで強く降らなくてもいいだろうに…
私は、溜息を吐きながら、外の雨を眺めていた。
駅から家まで20分。
20分もの時間を傘なしで歩くには、ムリのある強さの雨だ。逆に言えば、夏のこの時期にここまで強い雨が降る場合は、大抵、通り雨のパターンが多い。
私は、次の選択に迫られた。
近くのコンビニまで走って傘を買うか、どこかで時間を潰して雨が止むのを待つか。
残念ながら、さほど大きくない駅のためか、すぐ近くには、コンビニも時間を潰せる場所も存在しない。コンビニやインターネットカフェがある通りまでは、ほんの少しだが、距離があった。
したがって、どちらにしろ雨の中を走る事には変わりがなかった。
結局、濡れるのが確定しているのであれば、近くのコンビニに走り、立ち読みしながら、雨が止むのを待ち、待ちきれなくなったら傘を買って帰るのが、最も出費が抑えられる方法だろう。
あとは、駅を出るタイミングだけだ。
バケツの水をひっくり返したような今のタイミングで、傘なしで飛び出すのは正に愚行だ。少し待って、雨が弱まった時に出発するのが得策だろう。
私は、暇潰ししながら、雨が弱まるのを待とうとスマホを取り出そうとポケットに手を入れた。
その時、不意に駅の向かいの建物が目に入った。
向かいの建物の2階へ続く階段の入口にネオンのついた看板があり、BARの文字が見えた。
こんな所にバーがあったのか…
毎日通っている駅だったが、そんな所にバーがある事は、まったく気付かなかった。
ずっと見落としていたのか?それとも最近オープンしたのだろうか?
ともかく、ネオンが付いているという事は、営業中という事だろう。
これも何かの縁だ…
コンビニやインターネットカフェに行くよりは、断然近い場所にある。そのバーは時間潰しにもってこいのように思えた。私は、そのバーで一杯引っ掛けながら、雨が止むのを待つ事に決めた。
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店内は薄暗く、カウンター席が8つ程度のこじんまりとした作りの店で、センスを感じさせる飾り棚や間接照明が、会話を邪魔しない程度にボリュームを絞られた落ち着いたBGMと、ほのかに香る嗅ぎ覚えのあるアロマの香りとマッチしていて、好感度の高い雰囲気を醸し出していた。冷房も、昨今の節電推奨をバカにするように、ガンガンに効いていて、思わず生き返った気になった。
こりゃ、いいところを見つけたかも…
カウンターの一番奥には、髪の長い女性が一人で座っており、カウンターの中から40代くらいのマスターがこちらを見ていた。
「いらっしゃいませ。もし、よろしければ、こちらをお使いください」
マスターが、カウンターの中からタオルを差し出す。奥の女性から4つほど挟んだ席の前だった。
その前の席に座れ、という事だろう。
私は、マスターからタオルを受け取り、ここに辿り着くまでに濡れた頭と服を軽く拭きながら、カウンターの席に座った。
「ジン・フィズをお願いします」
タオルをカウンターに置き、カバンから煙草を取り出しながら注文する。
「かしこまりました」
マスターが、カウンターの上のタオルを回収して、ナッツの入ったオシャレな小皿と灰皿を目の前に置きながら答える。
私は、煙草に火を点けて、煙を吐き出しながら、マスターの手つきを見ていた。
「ジン・フィズは、『永』の字だ」
昔、バー好きの先輩が言っていた言葉を思い出す。書道では、止め・跳ね・曲線・直線・点など、全ての筆運びが用いられる文字として『永』の字が有名だそうだ。
それと同じように、分量配合・シェイキング・ステアリング・炭酸のアップなど、カクテルを作るための要素が全て用いられるのが『ジン・フィズ』というカクテルらしい。
だから、初めて行ったバーでは、ジン・フィズを頼めば、バーの技量がわかる、との事だった。
それを聞いてから、私も初めてのバーでは、『ジン・フィズを頼むようになった。…が、残念ながら、違いがわかった事はない。
カシャッ…カシャッ…カシャッ…カシャカシャカシャカシャ
マスターが、シェイカーを振る音が店内に響く。
「ア…う…」
その音に合わせて、妙な声が聞こえてきた。
カウンターの一番奥に座っている女性が何か言っているように聞こえた。
だが、マスターはその声に応える事なく、シェイカーを振り続けている。
シェイカーを振り終わった後も、その声を無視して、黙々とジン・フィズを作る作業に徹していた。もちろん、その間も女性は何を言っているかわからない声を出し続けていた。
思わず、こっそりと様子を探る。
今まで、あまり気にしていなかったが、季節外れの長袖の緑のワンピースを着た女性が俯いて座っている。グラスを握る手は、血が通っていないかのような透き通るような美しい白さだった。長い髪が垂れているせいで、顔が見えない。
時々、全身をカクカクと動かしながら、妙な呻き声を上げている。見れば見る程、薄気味悪い。
マスターの反応のなさから、自分にしか見えていないような気がしてくる。いっそ、マスターに『あそこのお客さん、体調悪そうだけど、大丈夫ですかね?』って聞いてみようかという気持ちが湧いてくる。
だが、『え〜っと、今、店内にはお客様しかいませんが…?』なんて返されたら、きっと怖すぎて泣いてしまう…
そうこうしていると、ジン・フィズが完成し、目の前にそっと置かれる。気を取り直して、目の前のジン・フィズをそっと啜る。
うん、うまい…と思う。
私の前にジン・フィズを置いた後、マスターは奥の女性の所に行き、目の前のロンググラスにお酒を注ぎ始めた。
よかった…。ちゃんと存在する人だった。
安心した私は、マスターが注ぐお酒のボトルを見て、ギョッとした。
スピリタスのボトルだった。
アルコール度数96度のウォッカだ。それをショットグラスではなく、ロンググラスにトプトプと注いでいるのだ。しかも、氷もチェイサーもなしに。
…正気の沙汰じゃない…
スピリタスをグラスに注ぎ終わったマスターが、私の視線に気付いたのか、こちらを見る。私が女性客をじっと見ていたのがバレただろうか?何か言って誤魔化さなければ…
「…それにしても、いい雰囲気のお店ですね」
私は、近寄ってくるマスターにそう告げる。女性客を見ていたのではなく、店内を見てたんですよ?というアピールだ。
「ありがとうございます」
静かに応えるマスター。
「それに、お店の名前の…ロッド オブ …なんでしたっけ?」
店の看板には、Rod of Asclepiusと書いてあった。"ロッド オブ" までは読めるが、その先がなんと読んでいいか、わからない。アスクリピウスだろうか?
「Asclepius。ロッド オブ アスクレピオスでございます」
惜しかった。
「そう!そのロッド オブ アスクレピオスって店名も、なんか変わっていてカッコいいですよね」
「ありがとうございます。アスクレピオスの杖という意味です。ギリシャ神話に出てくる医療の神が持つ杖の事です」
「…医療…の神ですか?」
「はい。私、この店を持つまでは医者をやっておりまして、その流れと言いますか…、それに…酒は百薬の長と言うでしょう?この店に来ていただいたお客様に対して、お酒を提供して、時には話し相手を務めさせていただき、少しでも日々の疲れを癒していただければと思い、医療の神様の名前をお借りしました」
寡黙そうなマスターが、一気に饒舌になった。
しかし、脱サラならわかるが、脱医者してバーテンダーとは、勝手ながら、非常にもったいない印象が強い。何か事情があったのだろうか?つい、勘繰ってしまう。
「アスクレピオスというのは、どんな神様なんですか?」
話を続けるために、本当に聞きたい事とは別の事を聞いてみる。それに、本当に聞きたい内容は、『何か医者を辞めなきゃいけない事情があったんですか?』という、デリカシーのない質問だったから、あきらめざるを得なかった。
「アスクレピオスは、アポロンの息子で、ケンタウロスの賢者によって育てられます。その医学の才は凄まじく、養父の賢者を凌ぐ程でした。
そして、その医術は、死者さえも蘇らせるほどになり、冥王ハデスの不興を買い、ハデスに頼まれたゼウスによって殺されてしまいます。
ですが、彼の功績は認められ、死後、天にあげられ、へびつかい座として神の一員に認められました。
簡単に言うと、こんな感じです」
アスクレピオスと言われるとわからないが、へびつかい座だったらわかる。
だが、なぜ蛇?
「なんで、へびつかい座なんですか?ヘビを使って医療行為を行っていたんですか?」
私は、素直に聞いてみた。
「それは、彼が死者をも蘇らせる事が出来るようになったエピソードから来ています。
ある日、彼は自分を驚かしたヘビを思わず杖で殺してしまいます。
その時、別のヘビが草むらから出てきて、死んだヘビに薬草をつけたそうです。すると、死んだはずのヘビが蘇り、薬草を持ってきたヘビと仲良く逃げて行きました。
それを見たアスクレピオスは、その薬草の効能について、熱心に学んだため、死者をも蘇らせる程の腕前になったと言われています。
ですから、彼のシンボルは、一本の杖に一匹のヘビが巻きついた形となり、それは医療のシンボルにも使われています」
「あぁ、このお店の名前の由来は、その杖なんですね?」
「おこがましいかもしれませんが…」
マスターが照れて笑う。
それにしても、死者を蘇らせるなんて、もはや医術の範疇を超えていないか?
「…あ…うぅ…」
再び、奥の女性が呻き声をあげ始めた。
「失礼します」
マスターが断りを入れて、カウンターの奥に向かう。つい女性の方を見ると、カウンターの上に置かれたロンググラスは空になっていた。
信じられない。
あんな強いお酒を、あんなわずかな時間で飲み干しているのか?ストレートで?
マスターが、ロンググラスを下げ、ジョッキにスピリタスを注いで、女性の前に置いた。
見ているだけで酔いが回りそうだ。
マスターは、スピリタスを置き終わると、私の方へ戻ってきた。
「私が、まだ医者だった頃、『現代のアスクレピオス』と呼ばれるほどの名医がいました。もし、よろしければ、お酒のつまみ代わりに彼の話をしてもよろしいでしょうか?」
そうは言われても、正直、興味がない。
だが、そんな風に言われて、『いえ、興味ないんで…、テヘペロ』なんて言える訳もなく…
「ええ、ぜひお願いします」
私は、マスターにそう告げて、会心の作り笑いを浮かべた。




