深霧カノジョ
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——彼女と出会ったのは、深い霧が景色に染みる、秋のある日のことだった。
両親はもちろん、大多数の生き物が寝静まった午前三時。いつもなら数時間もすれば制服に着替える時間。僕は震える手を抑えて家を出た。——もう、戻る気は無かった。
外は真っ暗だった。光を灯した建物は辺りに見られないし、古ぼけた街灯はろくに整備もされておらず、点滅どころか点すらしていない。
じゃあ空は、と見上げるが、太陽が出るにはまだ早すぎる時間だし、ぼんやりとした曇り空に月は浮かばない。
それに……寒い。
長袖のシャツとズボンにパーカーを羽織っただけの、簡単な服装。頭は幸いにも伸びた髪の毛で守られているけれど、秋も中間地点に差し掛かる今日この頃。寒気から身を守るには少々心許ない。
山から吹く風はどこまでも僕に厳しく、体を冷やし、木々を揺らし、僕の身も心も震わせにかかる。
「……ううん。厳しいのは、風だけじゃなくて——」
言いかけ、途中で口をつぐむ。
誰が聞いているわけでもないが、独り言でも言いたくないことはある。自分が臆病だからいけないのだと、認めてしまいそうな気がして。
だからすぐ、逃げるようにして歩き出した。
今は便利な世の中だ。携帯にも懐中電灯並みのフラッシュ機能が付いている。こんな田んぼと林に囲まれた霧と闇の世界でも、取り出せばきっと明るく行き先を照らしてくれることだろう。
季節外れの虫は寄ってくるかもしれないが、夜行性の動物や野良犬も見逃さないはずだ。
……けれど、あるいはだからこそ。僕は携帯を開く気にはなれなかった。
メール。インターネット。SNS。ソーシャルゲーム。誰かの息遣いを感じれば、この決心は鈍ってしまう。それに——フラッシュは別に、僕の友達になってくれるわけではないし、孤独のこの手が埋まるわけでもないのだから。
名残惜しさと足を引きずる迷いはあれど、それを打ち消すくらい心に塗りたくられた、靄のかかった感情があるから、僕は進む。
「……」
行き先は決まっていた。
道のりも知っている。
背負ったリュックには必要なものが入っている。漏れはない。ホームセンターで買って来た後、家で何度も確認をした。
だからあとは、一歩を踏み出す勇気だけ。
……それは随分と前向きな、後ろ向きの考えだと自嘲めいた感情がこみ上げてくるけれど、笑わない。……笑えない。
「……」
暗闇は、そのうち目が慣れた。
しばらく、歩いた。
工場の裏を抜けて、坂を登って、林の入り口にある無人の家を通り過ぎ、奥へ奥へ。柔らかな地面を踏み、葉っぱと小枝とあとは虫の死骸ぐらいしか落ちていない道を歩き、ギリギリ人一人が通れるくらいの、木々の間をかき分けて。
僕は足を止めた。
自然ばかりの風景に、明らかな異物として映る白塗りの建物。
一体誰が作ったのか、いつからここにあったのか、それらは全く分からなかったが、分かることもいくつかある。
剥がれた塗装。割れた窓。そこから覗ける、椅子もタンスもひっくり返った荒れた内装。外に落ちている雑誌の日付や家の状態から考えるに、少なくとも一、二年以上は持ち主が訪れていない。
——つまりこの建物は無人で、今は誰も使っておらず。廃墟と化しているのだ。
ここを見つけたのはほんの二日前のこと。周辺を見て回ったが、誰かが通りかかることはほとんどないようで、さらには不思議なことに虫や生き物もこの辺りには生息していない。
だから誰にも、見つからない。
「……ごめん」
それが誰に向けられた言葉なのか、考えるまでもない。
この世界で自分のことを気にかけてくれる人間はたったの二人だけ。学校には……誰も。
僕はギギ、と錆び付いた扉を開ける。
ドアノブを掴む手が汗ばんでいるのは、ここまでの道のりを休まず歩いてきたから……だけではないのだろう。
人は緊張なくして決心へと至れない。
たとえそれが大人になり切れない自分の、前向きな後ろ向きの考えだとしても、だ。
再び一歩を踏み出し、表情の固まった顔を前に出す。出して——気がつく。
誰かが、いる。
「……誰?」
反射的に呟いた僕の声は震えていた。だって、こんな場所でこんな時間に誰かがいる。それが本来の持ち主であったならば別の意味で怖いかもしれないけれど、深夜の廃墟に人。嫌でも連想してしまうものがある。
たとえば——そう。幽霊、あるいは僕を迎えに来た死神、とか。
「……っ」
普段ならともかく、今はそれを考えるだけでも恐ろしい。息を呑み、視線を戻す。
荒れた部屋の、椅子の影に紛れた闇色の物体。それは確かに人型で、記憶と比べるまでもない。
しなしそのまま見つめていても事態が進展するわけでもなし、まさか振り返って逃げようなどとも思えない。
一瞬迷う。だが、決める。
勇気を持って、一歩。顔だけでも拝んでみようと近づいていく。その結果が魂を抜き取られるというのなら、願ったり叶ったりだ。……きっと、多分。
人影がこちらに向き直る様子はない。興味がないのか、はたまた近づいた途端に姿を変貌させるのか。再び息を呑み、顔が見える距離まで来て——。
「…………」
「————っっ!?」
途端に目が合って、思わず叫び声を上げそうになる。
けれどすぐに、それは別の驚きへと変わった。
見慣れた紺色のセーラー服。肩くらいまでのさらりとした黒髪に、柔らかな曲線を描く長い睫毛。こちらをじっと見つめる黒目。体はやや細身だが、不健康というほどでもなく。
——歳までは分からなかったが、「それ」はどうやら女の子のようだった。
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目が合ってから、しばらく悩んだ後。
「ぇ。あ、え。ええ、っと! あの!」
勇気を持って開いた口はほとんど無意味に近かった。そもそも普段から全然使っていなかったし、滑舌は悪いし声は裏返っていた。話し方も、話の内容も、ハタから見ればひどく滑稽に映ったに違いない。
実際彼女もそう思っていた……とは信じたくないところだけど、少なくとも投げた言葉は一方通行で、掴まれず返されず空を飛び、十分もしないうちに僕は諦めた。
だから多分、彼女の気まぐれ……だったのだと思う。
リュックの中に入っていたチョコレートを口の中で溶かしながら、一体どうしてこんなことをしているのだろう、などと僕が頭を抱えていると、彼女はふいに呟いた。
前にも後にも言葉を繋げず、ただ一言。平坦なトーンで、
「あい」
と。
それはどうやら彼女の名前だったようで、慌ててこちらももう一度名乗り返すも、結局一方通行。続く会話はなかった。
————僕はそんな奇妙な、会話にもならないやりとりにおかしさを感じたのだと思う。
その日から彼女と会うようになった。
とは言っても、友達だとか男女の関係だとか、そういう間柄ではない。会う以上の進展はない。そんなに会話を交わすわけじゃない。
ただ、何となく同じ空間にいるだけ。
次の日も、また次の日もさほど変わらない。
お菓子や飲み物を持ち込んで、不思議な時間を過ごす。一言か二言彼女が呟き、それに僕が必死になって反応する。
「あいさん……じゃなかった。えっと、あいもそのアメ好きなんだ。僕もよく買ってるんだけど、美味しいよね」
「……」
「あ、そうだ! 今度色々持って来るよ。開けちゃったのもあるけど!」
流れる汗。言葉はどこまでもぎこちない。無駄に大きな身振り手振り。会話は生まれない。
けれど、そんなやりとりを続けているうち気がつく。
これが僕らの距離感で、互いの深い事情に踏み込むべきではない。
普段の言葉に感情の色は見えないけれど、きっと「あい」もそれを望んでいるのだと。
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「あい」との距離感は、僕にとってひどく心地が良かった。
あの夜にここへ来た元々の理由の——さらにその原因を忘れられるし、余計な気遣いもいらない。
外で何かを買って来て、ただそこでぼんやりと過ごすだけの時間。居心地が悪いわけではないけれど、良いと断ずるにはもどかしく、言葉という形を得るには難しい、奇妙な感覚。
一つ屋根の下であっても男女の関係には至らず、近朝が来る直前に別れる。
それが二人のルール。
「えっと、じゃあね。あい」
「……」
それだけ。
それだけの、時間。
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気にならない、というわけではなかった。
あの廃墟の中ならまだしも、外へ出てみれば彼女についていくつも疑問が浮かぶものだ。
たとえば。僕と「あい」が会うのは、いつも決まって日付が変わった三時間後。午前三時。
僕は朝からずっと起きっぱなしというわけではなく、予め眠ってからあそこを訪れるので、日によっては遅れることもある。ならば彼女にもそういうことはあり得るはず。多少彼女が遅れても気にしないようにしよう。そう考えていた。
——しかし、いつでも彼女はそこにいた。僕よりも早く、まるでそこに住んでいるかのように。
「あいは今日も早いんだね。いや、ここは静かだし、いいところだからその気持ちはすっごく分かるんだけど」
「……」
早く会いたいと思っていた部分も少なからずあって、昼間や夕方に訪れたこともあった。
けれどそこに「あい」の姿はなかった。
午前三時。その時間に何か意味があるとは思えない——なら、どうしてか。姿を隠しているか、あるいはやはり僕と必要以上に近づかないようにしているからか。
いずれにしても、「あい」は僕には夜以外に会いたくない。そんな拒絶が感じられた気がして、僕は少し落ち込んだ。
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同じ学校の制服。
あまり良い印象はなかったけれど、「あい」と出会って少しだけ柔らかなものへと変わった。…………と思う。
普段は無関心なくせして、何か一つ失敗をすると、やたらと騒ぎ出すから苦手。そんな印象を抱いていた女子たちに関しても、廊下ですれ違えば何気なく目で追うようになっていたし、それが黒髪の——彼女に似た生徒であったならば、なおさら。
……結局本人が見つかることはなかったし、「あい」ではないと分かった瞬間やめたとはいえ、そういった女子に声をかけようとしたことさえあるのだから、驚きものだ。
男子は……まあ、相変わらずだけど。
でもなんだか、不思議と前よりも色んなものが見えているような。
不思議な感覚、だった。
どこへ行っても景色が違う。馳せる思いが違う。今まで過ごしてきた世界と違う。夢から覚めた時のような、そんな感覚。
「あい」と過ごすあの廃墟が夢なのか、あるいは現実世界が夢なのか。どこまでが現実で、どこまでが虚構なのか。その境界は曖昧になっていた。
——身を焦がすほどの耐えきれない孤独は、いつの間にか薄れていた。
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冬になっても、僕たちの関係は変わらなかった。
さすがにこの季節ともなると、平気な顔で外を出歩く、というのは難しくなって来るので、電気ストーブ——しばらく放置されているはずなのに、なぜかあの廃墟には電気が通っていた——や毛布を持ち込んだり、カセットコンロとやかんまで置いたりした。
体を温め、寝転がる。冬の夜空を眺め、「今日もぼんやりした空だ」と呟き、いつも通り返事はない。距離感は変わっていない。
でもこの頃、彼女の言葉に何かを感じることが多くなった。
何か。それがどういったものを指しているのかは、僕自身も分かっていない。けれど胸の中にあるざわつきと、身をくすぐるような寂しさ。
それらは紛れも無い真実だと僕は思う。
だって、予感していたから。
変わらないものが変わるということ。すなわちそれは。
「…………私は、この空が好き」
「そうなんだ。じゃあ、僕は——」
僕は、どうなのだろう。
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その日は唐突に訪れた。
けれど僕は思うのだ。それは多分、最初から決められていた終わり。必然の決壊。
深い霧が景色に馴染んだ、冬のある日のことだった。
「——あなたはどうして死のうと思ったの?」
「あい」の問いに、様々な驚きが体を駆け抜けた。
彼女からの初めての問い。彼女が僕の事情に踏み込むこと。それが何を意味するか、僕たちは——僕は、知っている。
——景色が揺らいでいる。
僕がどう答えようとも結果は変わらないのだろう。恐らく、多分。きっと、間違いなく。
明らかな異物であるこの廃墟に、僕が訪れた瞬間から。
これは夢のような世界かもしれない。けれど、夢ではない。
だから僕は、「あい」に語る。
彼女に会うまで、どんな世界で過ごしていたかを。
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話し終えた後は変わらない。
いつも通り、持ち込んだお菓子や飲み物を口に含み、彼女との時間を楽しむ。
もうじきに、朝が来る。
そうすれば闇色の人影は太陽に吸い込まれ、消えていく。
だから、僕は問いかける。
「……次はいつ会えるのかな」
「……」
「言うのは恥ずかしいけど、……会いたいよ」
「……」
会話は起こらない。
どこまでも一方通行。
「あいは嫌……かな。ダメかな。こんなこと、思ったりして」
「……」
「また一人になるのは怖いよ。学校にだって、もっと行きたくなくなる」
「……」
隣に座るアイは、少しずつその形を変えていく。あるべき姿へ、あるべき場所へ。変換されていく。
————じゃあ、僕は。
「分かってるよ」
答えはもう、出ている。
「このままじゃダメなんだ。僕も変わらなきゃいけないんだ」
「……」
太陽の光が窓の外から差し込む。
現実と虚構の境界は景色に溶け、真実があらわになる。
「そうだよね、————靄」
「…………うん」
以前、本か何かで読んだことがある。
種類にもよるが、「それ」は秋から冬の、寒い季節に発生することが多いらしい。だから、冬が終われば。
「……頑張って」
彼女の言葉に何かを感じる。
それは凍った心を溶かすほどに温かく、身を震わせる寂しいもの。
けれどもう下は向かない。
言葉と姿を精一杯、瞼の裏に焼き付ける。
朝が来ても、決して彼女を忘れないように。今度はもっと、澄んだ瞳で彼女を映せるように。
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それは夢のような時間だった。
言葉という形を得るにはあまりにも曖昧な。ぼんやりとした、空みたいだと思う。
でも、だからこそ僕は勇気を持って、一歩。
世界に足を踏み入れる。
春が来て、靄が消えてしまっても。
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お読みいただき、ありがとうございました。
のちほど活動報告にて、少しだけ解説をさせていただく予定です。もしよろしければ、そちらの方もお読みくださればと思います。
感想等、お待ちしております。