ある日の癇癪
文字というものが憎い。
振る舞いというものが憎い。
わたしというものが憎い。
憎たらしくて仕方がない。
嘘だ。全て嘘になってしまう。
欺瞞のように、自己満足に、なってしまう。
憎い。
涙は自分のために流すものだというけれど。
言葉は自分の一部だというけれど。
思った感情は、発露するや否や、偽物になってしまう。
その感情が抱かれたときにはあれほど大事だったものが、
その感情が発露されるときにはどうでもよくなっている。
涙を流すときに本当に大切なのは自分なのだ。
自分のために泣いているのだ。
もう私は純粋な涙を流せない。
純粋な涙とはそもそもなんだろうか。
純粋な悲しみの発露であろう。
けれど私の涙は、純粋ではない。
こんなに悲しいのに、純粋ではない。
私は、私のために泣いているのだ。
憎たらしくて仕方がない。
私が癇癪を起しているのは自分に対してなのだ。
この後に及んで私が関心を向けているのは私なのだ。
ああ、わたし、わたし。
泣いていたって仕方がないのだ。
そんなことは当たり前だ。
しかし悲しい時泣くのは自然だろう。
ごく普通のことだろう。
それが嘘っぱちになってしまうのは何なんだ。
どうにかならないのか。
私は純粋に泣きたい。ただ泣きたい。
それだけなのに、あさましい私は、泣いて充たされているのだ。
悲しみさえも生の彩であるかのように。