出会いは桜吹雪 4
「透唯殿、母君のことをその様に仰せになるのは……。あの御方は確かに凄まじい方ではありますが、それも全てあなたを思ってのことなのですから」
「……“私”のこと? 兄上は本心でそう思っておられるのか? 芙揺が“私”を“私”と認識したことなど今までに1度もない。ない。私は常に圭威兄上の代わりなのだ。……私のことを私と認識していてくれたのは兄上と琉依姉さまに皇后陛下……そして康元兄上だけだ」
そう言って芙揺が住まう宮を眺める透唯の顔には、諦めの表情だけが浮かんでいた。それを見た悠舜は何も言えなくなった。芙揺が透唯を亡き息子と重ねて見ているのは自分だけでない、宮中に仕える誰もが知っている。知っていながら、誰も手を差し伸べなかった。
彼には、その価値が無いと思っていたのだ。身分低い宮女の腹に生まれた末息子のことなど誰も気に留めなかった。事実、先帝が崩御する直前に、彼の皇子皇女のほとんどが降嫁・養子という形を取った実質追放をされなければ、透唯に皇位は辿りつかなかったのだから。
「……皇上、今回は特別措置ということに致しましょう。我々も御身も、願っていた御使様の光臨です。このような所で時間を食うよりも、実際に会って確かめる方が早いでしょう」
「兄上、会ってよいのか? 私が、その方に」
「臣下として、後見の立場で言わせてもらえば、会って欲しくはありません。御身を危険にさらすことになります故。ですが、兄としての立場を取るのなら弟の願いをかなえたいと思うのは当然のこと。さ、参りましょう」
透唯の肩を抱いて門の方へと促す。この門を抜け後宮を通り抜ければすぐそこに朱礼門が見える。透唯は、自分の意見が通ると思ってもみなかったのだろう。驚愕と嬉しさの表情が入り混じった顔を悠舜に向けている。しかし、その歩みは止まる事はない。歩みはやがて小走りに変わる。一歩門へ近づくごとに、透唯の顔に不安と焦燥が浮かぶ。だが、歩みは決して止まらない。彼の体内を流れる古より伝わる血が、彼女と透唯を繋げようとしているのだろう。
朱礼門の前には輦とそれを押す人夫が10名ほど、鄭家の使いと思われる初老の男が立っていた。輦の前側は御簾と几帳が下り、外部からその中を見ることは不可能だった。使いの男は悠舜と透唯に気付くとその場で跪拝の礼を取り、奏上を始めた。
「僕、畏くも皇帝陛下並びに後見さまへのお目通りをお許し頂きこの身に余る光栄に存じます。鄭家第12代当主、英顕が家令にて陵迅が3子、陵宜淑にございます。我が主より命を受け、御使様の御身を皇帝陛下のお許へお連れ申しあげました。恐れ多くも後見さまに申し上げます。皇帝陛下に奏上をお願い申し上げます」
「陵家の者か、良い。直答を許す、面を上げよ」
「皇帝陛下のお言葉、僕にはもったいない栄誉でございます。なれど、玉顔を拝し奉るはあまりに恐れ多いことにございますれば、このまま奏上を続けることをなにとぞお許しくださりませ」
「陵宜淑、皇上御自ら直答を許すとの仰せであるぞ。玉顔を拝し奉ることへの配慮は良い心がけだが、皇上の心配りを無に帰すとは無礼であるぞ」
「は……皇帝陛下の御心、謹んで承ります」
顔を上げた宜淑の額にはうっすらと汗がにじんでいる。皇帝陛下の前にいることと、御使の側近くに控えていることからくる緊張だろうか。
「こちらにおられます御使様は、先刻我が主の領地、桜狩の森にご降臨されました。今は輦の中で御休み遊ばれております」
「なぜ当主自ら皇上のもとにお連れしないのか。御使様を軽んじていると受け取られても仕方のない行為である」
「恐れながら、我が主は先年より病を得られ今も臥せっておられます。主のご子息は……後見さまもご存知のこととお見受けいたしますが、自ら表に出られることをたいへん厭うておられます。それゆえ、家令である僕にこの任をお命じになられました」
悠舜はまだ納得がいかない顔をしていた。だが、おそらくこの家令自身自分の身分に合わない大役を任され困惑しているのだろう。これ以上ここにいない人物への責任を追及するのは無駄だと考え、輦に目をやる。輦を押してきた人夫たちはみな平伏しているためその表情を見ることはできないが、何人か小刻みに体が震えている。本来ならこの宮中に近づくこともできない彼らだ。ここにいることを名誉だと思うよりも、恐怖に近い感情で押しつぶされそうになっている。
この後、いったいどうやって母后に気付かれずにこの輦を宮中に運び入れるか思案していると、先ほど悠舜と透唯にこの事態を伝えてきた女官が再び彼らの前にやってきた。
「皇上、後見さま。差し出がましいと思いましたが信頼のおける侍官たちを連れてまいりました。また、温命殿に控えておられた炎侍中、清侍郎、地朗中、風官吏にも使いを送りました。まもなくこちらにご到着されます」
「ありがたい、手間が省けた。礼を言うぞ、張保母」
悠舜の言葉にゆったりと微笑み、略式の礼を取りすぐに透唯のそばに控えた。彼女は透唯の乳母の1人であり、後宮内で透唯が最も信頼する人物である。過去に幾度となく乳母の一族が政治に関わろうとしたため、養い子が3歳になると役目を解かれるのだが、彼女はその後もお目付け役として後宮に残り透唯を影から支えた。彼が生母から酷い仕打ちを受けたとき、命を顧みずに生母に対して諫言し、一時的に自分の家に彼を保護するなど全力で透唯の心と体を守り抜いた。それを評価されて現在後宮を取り仕切る上級女官を任されている。
「皇上、皇上が望まれた御使様が御身の御代にご降臨なされますとは……皇上の治世は後世にも残る英治となられる予兆でございます」
彼女は感極まって涙を流しながら透唯に話しかける。透唯は照れくさそうにうんと頷き、彼女の手を引いて輦に近づく。その姿は本当の母子のように温かい愛情で溢れており、悠舜は改めて彼女の存在に感謝した。そして、ここにいない透唯の生母に、彼女の手のひら程の大きさでもいいから母としてまっとうな愛情を分けることができたら、と叶うはずのない願いを胸に抱いた。
俄かに複数の足音が聞こえた。回廊を振り返ると、数名の侍官と先ほど名前が挙がった透唯の側近たちが小走りで向かってくるのが見えた。透唯も彼らの存在に気付いたのか、輦の側から離れずに視線だけを向け、次いで悠舜に話しかける。
「兄上、御方を連れていく室は私の」
「皇上。その仰せには従えません。御身の室に張保母以外の者が、しかも複数人出入りするところを誰かに見られては……御使様をお守りすることが困難になりかねません。水晶の間に李老師を呼んでおります。ひとまずそちらにお連れいたしましょう」
「――わかった。……芙揺にこのことが漏れただろうか」
「まだわかりません。できる限り気づかれぬようにせよと命じましたが、あの方の目となる者はこの宮中のどこにでもおります」
「急いで、お連れしよう」
その場に着いた侍官たちの礼を早々に解き、輦を宮中に運び入れるように命じると、ふと思い出したのか宜淑と人夫たちに労いの言葉をかけ、輦に張り付いて宮中へ戻っていった。張保母も彼についていき、その場には悠舜と側近たち、鄭家の使いが残された。