始まりの風 3
昔から、姉の私に対する態度が怖いと言うよりも、不思議だった。なぜ、あんなにも私に敵対心を剥き出すのか、なぜあんなにも私を憎むのか。憎まれるような事を私はしてしまったのかと何度も考えた。でも分からなかった。そんな事をしてしまうほど、私は姉と対面した記憶がない。私が覚えている姉は、凛とした雰囲気の、勝気な瞳を持つ少女だった。
何をさせても人並み以上にこなしてしまい、それをひけらかすことなく黙々と新しい課題に向かう姿勢にあこがれた。私もいつか、姉のようになりたい。いつか、私が妹でよかったと思ってもらえたら。それだけを考えて今まで努力してきた。
それが無駄だと気付かされたのは今からちょうど3年前の夏休みのことだった。それ以来、ほとんど顔を合わせることもなく、会ったとしても会話をしたこともなかった。
「糺ちゃん、そろそろ着くみたいじゃが……大丈夫か?もしも気分が悪いなら、ここでちぃと休んでもいいんで」
「あ……いえ、大丈夫です」
いけない。姉さんがくると聞いてからずっと黙り込んでしまっていた。先輩が心配そうに私の顔を覗き込んでくる。彼にはいつも心配をかけている気がする。今日のことも、3年前のあの日のことでも、させたくない表情をさせてしまっている自分が情けない。
そんなに心配しないでと先輩に笑いかけ、車から降りると、父の秘書が出迎えてくれた。彼がいうには、すでに両親と兄姉たち、そして本家のご当主が広間で待たれているらしい。これ以上皆さんをお待たせするわけにはいきません、と彼の歩みが普段よりも早いペースでズンズン進んでいく。
広間の扉の前で、いったん呼吸を整えさせてくれと彼に頼み、何度か大きく深呼吸をした。最近の運動不足がこんな形で表れるなんて思ってもみなかった。明日からまた走りこもまないとですね。と先輩に話しかけると、なぜか困ったような顔で黙ってしまった。姉と顔を合わせることの恐怖で乱れた呼吸を運動不足のせいだとごまかして、どうにか心臓を落ち着かせようとしていることを気づかれたくなかったのだが、先輩には気づかれてしまったのかもしれない。もう一度深く息を吸い込み、乱れた制服を直し、眼鏡をかけなおす。
大丈夫、いつも通りでいればいいんだから。扉に手をかけながら帰宅の挨拶を告げる。
「糺羅です。ただいま戻りました」
普通に声をかけようと思ったのに、やっぱり少しだけ震えてしまった。みんなの視線が一気に私と先輩に集まっていく。広間の真ん中に置かれた長いテーブルには、上座のご当主から時計回りにご当主のご主人、私の両親、姉、姉の旦那さん、兄三人、ご当主のお子様たちと、先輩のお母さんが席についている。
「ちぃと待ってくれ。なんでおかんがここにいるんじゃ。おかんは今日のことにゃぁ関係ないんじゃないんか?」
「あー言ってんかったわねぇ。ウチ実はご当主の前妻なんよ。その縁もあってってゆーか、一応当主代行してることもあって呼ばれたんよのー」
「…………はぁ!?」
知らされていなかった事実に先輩が思わずテーブルのお母さんに詰め寄ろうとするが、いつの間にか席を立っていた長兄に阻まれた。詳しいことはあとできちんと説明するから今は待っていてくれと言われ、納得のいかない顔で先輩は空いていた席に座った。目線はお母さんからそらさず、『なんでそんな大事なこと今まで言わなかったんだよ!』という非難を込めたまなざしを送っていた。
私はどうしたらいいのかわからず、扉近くで立ちすくんでいると、長兄から「ご当主に改めてご挨拶をしなさい」と促された。姉のほうに目を向けたが、私のほうへいちども視線を送ることなく、彼女は唇を一文字に引き結び、まっすぐ前を見つめていた。隣に座る旦那さんが少し姉に気を遣うそぶりを見せながら、小さく私に会釈をしてくれた。優しそうだが気の弱さが前面に出ているためか、姉がチラと彼に視線をやると、慌てた様子でうつむいてしまった。
できるだけ姉に意識を向けないよう、やや早足でご当主の席に向かう。その途中で母が何か話したそうな顔をしていた気がするが、それに反応するわけにもいかず、気が付かないふりをして通り過ぎた。
――彼女がご当主――。
虹野家当主、虹野愛生。年は47歳と聞いていたが、それを感じさせない容姿を持っている。切れ長の目は色素が少し薄いのか、光の加減によっては薄い藍色のようにも見えた。白髪のない髪を後ろでゆるく三つ編み、肩から前に下ろしている。手元や首に皺は見当たらないが、首筋から胸元にかけて切り傷のような一筋の線が見えた。随分と昔の傷なのか、だいぶ目立たなくなってはいるが……その範囲の大きさから命にかかわるようなけがだったのかもしれない。
「ご挨拶が遅れ失礼いたしました。虹野正路の次女、糺羅と申します。ご当主様にはご機嫌麗しく、また本日わたくしの誕生祝いの席へおいでいただき、まことにありがとうございます。以後お見知りおきください」
お辞儀を済ませた後一息に挨拶を済ませ、再度頭を下げながら彼女からの言葉を待つ。
……何も返ってこない。この沈黙に耐え切れず、恐る恐る顔を上げると、至近距離に彼女の顔があった。驚き思わずのけぞるとちょっと傷ついた顔をされてしまった。いやでも私の反応は普通だと思うし、そもそもそんなに顔を近づけてないで何か一言言葉をかけてほしい。自分のしてしまった対応の後始末に迷っていると、唐突にご当主が話を始めた。
「糺羅さん、あなたに会うのは10年ぶりですね」
「えっ……お、お会いしたことがあったのでしょうか」
「いえ、覚えていないのも仕方のないことです。……もともと縁が薄い――――だということなのでしょう」
なぜだろう、ご当主の言葉の一部がうまく聞き取れない。何かノイズがかかっているような、耳元でザザァと不快な音が聞こえた。