その3
楓が家に帰ると、すぐに夕食の時間になった。国語科準備室に長居したので、帰宅時間が遅くなったのだ。
本郷に渡されたお菓子の紙袋は、ちゃんと持って帰ってきた。あんなことはあったものの、お菓子に罪はないだろう。中身は煎餅の詰め合わせだった。両親が喜んでいたので、捨てずに持って帰ってきて正解だ。
夕食を終えるとすぐに、楓は神殿へ向かった。
『どうした楓、このような時刻に』
「石神様、今日変なことがあったの」
楓は石神様に、本日の本郷とのことを全て話した。石の声と本郷の人格が、入れ替わったようだということも。
『ふぅむ、異なことがあるの』
「石神様感心しないでよ。私は怖かったんだから」
暢気な石神様に、楓は文句を言う。
『おおよしよし、かわいそうに」
石神様から、ふわりと温かい空気のようなものが流れてくる。すると、楓の鬱屈した気持ちが軽くなるのがわかる。楓の心を癒してくれたらしい。さすが神様だ。
「ねえ石神様、こんなことってあるの?」
『そうさの、ないこともない』
石神様か解説してくれた。
『古来より、己の均衡をとることを不得手とする者が、たまにある。その者の中で、均衡を失い、消えゆこうとするものを、石が吸い取ってしまうことも、また稀にある』
石神様の言うことは難しい。一体どういうことであろうか。
「その、均衡を失って消えていくものって、なに?」
『人が心と呼ぶものだ』
均衡――バランスがとれなくなって、消えていく心を石が吸い取る。ここまでは楓にもなんとなくわかる。だが、それがなんだというのだ。人の念を吸い取った石と、どう違いがあるのだ。
『そうさの、なんと言えばよいか。普段楓が聞く石の念は、人の心のほんの一欠片ほどを吸い取っているに過ぎない。反面、心を吸い取るということは、心の半分、場合によっては丸ごと吸い取るということだ』
大変な話になってきた。楓はごくりと息を飲んだ。
「そんなことってあるの?」
『あることはある。が、繰り返すが稀なことよ』
石神様でも、本郷の例は珍しいらしい。
「そんなことになったら、どうなるの」
『当然、人として在ることが出来ぬであろう。言い直せば、人格崩壊だの』
石神様が怖いことをサラリと言う。
楓は本郷の副音声を思い出す。礼儀正しい雰囲気の本郷とは間逆の、口が悪い声。石神様の言葉では、あれも本郷の人格だ。本来ならば、本郷の中で共存していなければならないものだ。
『水清ければ魚棲まぬというであろう、それと同じことよ。よいか楓、人というのはの。清濁合わさった存在なのだ。清き心だけでも、また濁った心だけでも、人は在れぬ。』
楓は、石神様の言葉を神妙に聞く。
『清き心と濁った心の均衡をとることができず、心を病んでゆく者も、それなりに存在する』
本郷も、心を病んでいるのだろうか。
『その本郷とやらが持っている石を見てみたいの』
石神様がそう言った。
***
巽が目を覚ましたのは、夜だった。
いつの間に帰宅したのか、自室のベッドに寝ていた巽は、目覚まし時計で時間を確認する。現在夜の七時三十分である。
――いつのまに寝てしまったのだ
少々頭痛のする頭をかかえ、巽はのろのろと自室から出る。
リビングでは、兄が酒を飲んでいた。
「おう、起きたのか」
巽に気がついた兄が、声をかけてくる。
「なんか食うか?」
「……少しだけ、お願いします」
そうお願いして、巽はダイニングテーブルに座った。
兄があらかじめ用意していたらしく、すぐにおかゆが出てきた。ゆっくりとおかゆを食べる巽を、兄がじっと見つめる。
「お前、放課後の記憶ある?」
兄はそんなことを聞いてきた。
「……放課後」
巽はおかゆを食べながら、思い出す。石守を生徒指導室に呼んで、話をしたことは憶えている。だがその先があやふやである。
「途中までは憶えているのです。でも後半があまり……」
巽の答えに、兄は大きくため息をついた。
「お前はな、あの娘に襲い掛かったんだぞ」
兄の衝撃的な言葉に、巽は目を見開く。
「……僕が、彼女に乱暴を働いたんですか?」
兄は巽の言葉を少し思案する。
「乱暴を働くという表現は、間違ってはいないな。正確に言うならば、お前はあの娘の制服を脱がせようとしていて、胸のあたりに顔を埋めていた」
巽の思考は停止した。顔に血が上るのが自分でもわかる。
「……本当ですか?」
「大マジよ。俺が殴って止めさせたんだぞ。感謝しろ」
兄が巽の正面のイスに座って、ふんぞり返った。巽は、テーブルの上に顔を伏せる。
「なんてことを……」
憶えていないでは済まされない事態である。
「泣いているあの娘を、香織ちゃんが慰めながら連れて行った。お前、やらかしたな」
やらかしたどころではない。彼女の両親に訴えられたら、巽は謹慎では済まない可能性もある。それ以前に、彼女に会わせる顔がない。
――犯罪、しかも婦女暴行なんて
顔を伏せたまま動かない巽に、兄が気遣わしそうに声をかけた。
「巽、こっちに引っ越してきて、発作は納まってたんだろ?それが、どうしたんだよ」
どうした、とは巽が聞きたい。一体自分はどうしてしまったのだ。
「……父さんには」
「まだ連絡してない。ちゃんと本人同士で話をした後と思ってな」
話をと言うが、果たして彼女は自分と話をしてくれるだろうか。あのどこかおどおどとした目が、汚らわしいものでも見る目に変わってしまったら、巽は立ち直れるかわからない。
幸か不幸か、今日は金曜日である。土日を挟めば、自分の気持ちも今よりは持ち直しているかもしれないし、あちらも時間が経っておちついているかもしれない。巽のそんな考えを読んだのか。
「巽、明日にでも謝りに行けよ」
兄がそう言ってきた。
「……月曜日ではいけませんか」
巽の消極的な意見に、兄は頭を小突いてくる。
「月曜日に、学校の他人の視線がある場所で謝るのか?あの娘の方がかわいそうだろう。さらし者だぞ」
兄の意見に、巽はぐうの音も出ない。確かにその通りだ。
「それよりも、明日家に行って二人きりで謝った方が、こじれずに済むぞ。それにお前二日も、そうやって悶々としている気か?」
さらに最もな意見である。
「罵られて謝罪を受け入れてもらえなくても、頭を下げてもう近寄らないという誓約をして来い。そうでなければ、あの娘が心に傷を負って不登校になって。将来が台無しになった時、お前は責任をとれるのか?」
巽が沈黙していると、兄が気になることを言ってきた。
「でもよ、香織ちゃんが連れて行く前、あの娘おかしなことを言ってたな。音声がどうのとか」
「はい?」
巽はテーブルから少し顔を上げて兄を見た。
「お前が加害者であの娘が被害者であることは変わらない。けど、泣いていても取り乱して叫ぶでもなく、比較的冷静だったぞ。危ういところだったんだから、拒絶反応を示してもおかしくないのに。逆にお前の服を剥いていた」
兄の報告に、巽は息をのむ。
「お前がいつもしているネックレスあるだろ?それをつかみ出して、なんか怒鳴ってた」
巽は自分の胸元を探った。そこには鎖に繋がれた、小さな黒い石がある。
「案外、あの娘はお前の発作の原因を、知っているのかもしれないぜ」