その2
どうにも、本郷の様子がおかしい。
「先輩、大丈夫ですか?」
本郷が、楓の腕を引いた。それに抗おうとして、楓は床に倒れ込んだ。足がイスに当たったようで、イスが大きな音を立てた。
「いったぁ……」
本郷はそんなことには構わず、あろうことか楓の上にまたがる。その上、なんと楓の胸に触れてきた。
「ああ、やわらかい」
――!!!???
楓は驚き過ぎて声にならない。今自分は目の前の男に、何をされているのだ。
こちらがなんの反応も示さないのをいいことに、本郷は楓の胸をふにふにと揉んでくる。その感触に、楓の顔は真っ赤に染まる。
「せっ、ちょっ、やっ」
止めさせようと本郷の頭を叩くも、本郷は行為を止めない。むしろブレザーを脱がせようとしてくる。
――なに、今どういう状況なの!?
混乱の極致にある楓とはうらはらに、本郷は楓の首筋に顔を埋めてきた。本郷の上着を引っ張ってみても、彼はびくともしない。それどころか、両腕をとられて頭の上に片手で拘束されてしまう。
今楓の目の前にいるのは、本郷のはずだ。それなのに、これは一体誰なのだ?
「あのちょっと……」
「ムッチリちゃんは、ムッチリのままがいいんだって」
もう片手が器用に、楓の制服のネクタイを緩めてくる。思いも寄らない事態である。
しかし、混乱中の楓は他のことが気にかかった。本郷のこの口調はやはり――
「あなた、ひょっとして副音声の方ね!?」
「ムッチリちゃんは活きがいいな」
本郷の顔が、楓の間近でニヤリと笑う。
なんということだろうか。本郷にどんな変化が起こったのか知らないが、主音声はどこに行ったのだ。そして自分はどうなるのだ。
本郷の顔が、楓の首筋から胸へと降りていく。楓の下着から出ている胸の柔らかい場所を、本郷は赤い舌でペロリと舐めた。
「んっ……」
変な声が出てしまった楓は、息苦しさで目の前がチカチカしてくる。このままでは危険だ、と楓がやっと悟ったとき。
ガラリ、と生徒指導室のドアが開いた。楓の体勢からは本郷が視界をさえぎり、誰が開けたのかは見えない。
――誰でもいい、ここから助けて!
楓が心の中で必死に助けを求めると。
「不純異性交遊はいけないなぁ、本郷くん」
ガツン、と誰かに本郷が殴られた。本郷はその衝撃で、楓の上に倒れ込む。
「楓ちゃん平気?」
声の主が、楓に見える範囲にやってきた。本郷を殴ったのは、平井先生だった。
殴られた本郷は起き上がる様子もなく、ピクリともしない。当たりどころが悪かったのか、と楓が少々不安になると。
――寝てる?
本郷は、楓のお腹の上で寝息をたてて寝ていた。それを確認すると、楓の身体からどっと力が抜けた。
「楓ちゃん、何があったのか言える?」
平井先生が本郷を楓の上からどかしつつ、質問してくる。
「副音声が主音声を乗っ取った……」
「は?」
「いえ、違うくて!えっとその……」
呆けたせいで、楓は思わず本当のことを言ってしまう。これは他人に言ってもわからないことだ。
楓は慌てて起き上がる。その時、楓の横に寝かされている本郷の胸のあたりに、楓の手が振れた。そこには小さな堅い、ゴリッとした感触がある。
――なんか堅い?
もしかすると、とひらめいた楓は、本郷の制服を開いてそれを探り出した。それはネックレスになっている、小さな黒い石だった。
『あーあ、せっかくいいところだったのに』
石から声が聞こえた。
「あなたね!さっきのは!」
楓が石に怒鳴りつけると。
「えーと楓ちゃん?大胆なことをするね」
平井先生が、あきれたような声で言った。
その声で楓はふと我に返り、自分の姿を確認する。制服が乱れて胸元の下着が丸見えになり、さらにその下着の中身まで見えそうになっている。楓はその格好のままいつのまにか本郷に馬乗りになり、彼の上半身の制服を剥ごうとしていた。
「っっ違います!これは違うんです!」
「若いって、すごいなぁ」
「だから違うんです!」
ただでさえ赤い顔をさらに真っ赤にして、楓は否定する。これではまるで痴女ではないか。
「平井先生、騒がしいですよ……」
再び生徒指導室のドアが開き、今度は新井先生が顔を覗かせた。騒動が隣の職員室に聞こえたのかもしれない。だが、楓と本郷の様子を見てギョッとした表情をする。
「石守さん、どうしたの!?」
新井先生が楓に駆け寄って、ぎゅっと抱きしめてくれる。そのぬくもりに、楓はほろりと涙がこぼれた。
「新井せんせい……」
泣き出した楓を抱きしめたまま、新井先生は強い視線で平井先生をにらみつけた。
「平井先生、よもやと思いますが、場合によっては許しませんよ?」
「いやいやお願い待って。俺もよく状況を知らないんだって」
平井先生が慌てて言い訳をしはじめる。それをぐすぐすと鼻をすすりながら、楓は眺めていた。
「とにかく、石守さんは私が連れて行きます。平井先生から本郷くんに、ちゃんと事情を聞いてください」
新井先生が楓の制服を調えてくれた。
「さ、場所を移動しましょう」
新井先生に手を引かれて、楓は生徒指導室を後にした。
新井先生が連れて来てくれたのは、国語科準備室である。移動してきた頃には、楓の涙も止まっていた。
国語科準備室には、先客の女子生徒がいた。ストレートの黒髪をおかっぱにした彼女は、イスに座って本を読んでいる。
「橋本さん、お茶を一杯入れてくれる?」
新井先生がその女子生徒に声をかけると、女子生徒は本から顔を上げた。
「新入部員ですか、先生?」
「その有力候補よ」
女子生徒の質問に、新井先生が返事をした。
「部活動中ですか?」
もし楓が、その最中にお邪魔したのであれば申し訳ない。俯く楓を、新井先生が励ましてくれた。
「いいのよ!部活動って言っても同好会だし、石守さんは大事なお客さんなの!」
「そう、弱小同好会の貴重なお客人、どうぞ」
いつの間にか女子生徒がお茶を入れてくれていた。お茶菓子にどら焼きも添えられている。校章を見ると、二年生の先輩だ。
せっかく入れてくれたお茶を無駄にするのも悪い。楓は息を吹きかけて少し冷ますと、一口飲んだ。温かいお茶が、身にしみた。
「石守さん、ここには男共はいないわ。なにがあったのか言える?」
楓が落ち着いたのを見計らったのか、新井先生が聞いてくる。
「……えっと」
楓はちらりと女子生徒を見る。楓の視線に気付いたのか、
「先生、どこか行ってますか?」
女子生徒がそんなことを言った。しかし新井先生は首を振った。
「いいえ、一緒に聞いて。貴方も大事な戦力だから」
戦力って、新井先生は誰と戦うのだろうか。
しかし黙っておくのも苦しくて、楓は生徒指導室での出来事を話すことにした。だが話すといっても、副音声がどうのという部分はぼかして話した。でないと楓の方が怪しまれる。
「本郷くんにも事情があるのはわかっているけど、それでも女の子を力ずくなんて、男子の風上にもおけないわ!」
「……ほほう、本郷がそのような外道だったとは。相応の罰をくれてやらねばなりませんね」
新井先生は声を荒げて怒り、女子生徒は静かに怖いことを言う。
「かわいそうに、怖かっただろう」
女子生徒が、楓の頭を撫でる。
「……っふ、怖かったです~」
楓はあの状況を思い出してまた、涙を流した。
「うんうん、怖いことを我慢するのはよくない。うんと泣いておくといい」
女子生徒は楓の頭を撫でながら、口元にどら焼きを運んでくる。楓は差し出されるままにどら焼きを食べた。
それにしても、本郷の身に一体なにが起こっているのだろうか。