その1
本日のの午前中は、身体測定である。
――ああ、憂鬱だ
楓はできれば休んでしまいたかったが、休む理由を両親に説明できるわけもなく。仕方なく、朝を少々控えめに食べて出てきた。そのせいで今、楓はとてもお腹が空いていた。
一ついいことがあるとすれば、朝から本郷に遭遇しなかったことだろう。今朝の校門チェックに他の風紀委員はいたものの、本郷はいなかった。昨日の午後に早退して、今日は休んでいるらしいと、女子生徒が噂をしていた。他人の不幸を喜ぶようだが、楓はおかげでクラスの女子に絡まれないで済んだ。
ホッとしている楓とは裏腹に、女子生徒たちは朝の楽しみがないと嘆いていた。一方男子生徒は、口うるさい風紀委員長がいなくてせいせいした、という意見が大半らしい。
あの冷静な受け答えで細々とした注意をされるのは、確かに精神的にダメージがあるだろう。女子生徒に受けがいい本郷も、男子生徒にはあまりよく思われていないようだ。
「東京もんだって、すかしてやがる」
という陰口を、楓も聞いたことがある。有名人も、いろいろ大変なことがあるようだ。
午前の身体測定の結果、楓の成長期は終わっているようで、身長は伸びていなかった。体重も変わりはない。朝を軽めにした甲斐があった。
午前の授業が終わり、昼休みになった頃には、楓はもうお腹が空いてふらふらになっていた。飲み物を買いに売店へ向かう道すがら、楓は力なくトボトボと歩いていた。
――朝をちゃんと食べていればよかった
冷静に考えれば、よほどの大食いでなければ、朝ごはん程度でそれほど変わるわけがない。通学する間にだって、カロリーは消費されるのだ。それでも頑張ってしまうのが、女子の悲しい性というものかもしれない。
ようやく売店に辿り着き、楓はお茶パックを買った時。
「おやぁ、君も朝を抜いた系?」
楓に陽気な声をかけてきた人物がいた。視線を声の方に向けると、平井先生がいた。彼も飲み物を買いに来たのだろうか。
「……いえ、一応食べました」
「駄目だよ、女の子はちゃんと食べないと」
「はぁ」
やはり平井先生は苦手だ。楓は自分の身体を見下ろして、ため息をついた。太っている人間に、食べることを助言するなんて、デリカシーがない。
「今から、ちゃんと食べますよ」
いいわけじみたことを言うと、楓はその場から逃げ出した。
午後の授業が終わり放課後になる。
楓が帰ろうとした時、校内放送がスピーカーから流れた。
『石守楓さん、生徒指導室まで来てください』
教室にまだ残っていた生徒が、楓を見る。楓は視線から逃れるように、俯いてしまう。
――生徒指導室って、なんでだろう?
楓の印象としては、生徒指導室は悪いことをした生徒が呼ばれる場所だ。自分はなにか、トラブルを起こしたのだろうか。それにスピーカーから流れた声は、本郷の声ではなかっただろうか。
――本郷先輩、朝いなかったよね?
ともあれ、呼ばれたからには行かなくては叱られてしまう。楓は渋々生徒指導室へと向かった。生徒指導室は、職員室の隣である。
「……失礼します」
楓が生徒指導室のドアに向かって、恐る恐る声をかけると、室内から「どうぞ」と応答があった。
室内に入ると、本郷が一人でイスに座っていた。テーブルの上には、紙袋が置いてある。
「なにか、ご用でしょうか……」
「まあ、座ってください」
腰が引けている楓に、本郷は席を勧めた。
「呼び立てたりして、申し訳ない。あまりおおっぴらに話したくなかったものですから」
楓が座ると、最初に本郷が謝った。しかしその謝罪に、楓は余計に動揺する。
――おおっぴらに話せない内容の話って、何?
本郷は楓が怯えていることを感じ取ったのか。
「ああ失礼、言い方が不穏でしたね」
そう言って、テーブルの上の紙袋を楓の方に押し出した。
「……なんです、これ?」
「先日のお祓いの、お礼だそうです」
楓の疑問に、本郷が端的に答えた。
「そんな、新井先生にはいいって言ったのに」
楓は昨日の新井先生との会話を思い出す。もしかして楓が、お礼を期待しているように見えたのだろうか。楓が困っていると。
「誤解のないよう、これは新井先生からではありません」
本郷が謎なことを言った。新井先生でないならば、誰がお礼をするのだろう。意味がわからず、楓は首を傾げる。本郷は咳払いをして、説明を続けた。
「先日お祓いをしていただいた品物を、新井先生に贈った人物からのお礼の品です」
「ああ、あれプレゼントだったんですか」
ようやく楓も納得した。おそらくユニコーンの置物のことだろう。あれだけ、他のアンティークとちょっと趣味が違った。それに楓が見つけたとき、新井先生はうれしそうであった。
「自分の贈り物のせいで体調を崩したと知って、たいそう慌てたようですね。それでぜひお礼をと。中身はお菓子です」
納得はしたが、それをどうして本郷から手渡されるのか、それが楓にはいまいちわからない。
「このようなお礼の品を、生徒の前でおおっぴらに渡すわけにはいかないでしょう。ですから、僕からこっそり渡しているのです」
「そうなん、ですか」
理解できるような、まだわからないような。なにやらややこしいいきさつである。だが、とりあえずこの紙袋を自分が持って帰るのだ、ということは理解できた。
「じゃあ、遠慮なく頂いていきます」
「そうしてくれると助かります」
楓が受け取ったので、本郷もホッとした様子である。
空気が和やかになったようなので、楓は朝のことを聞いてみた。
「そういえば先輩、朝いませんでしたね」
噂になっていたように、休みではなかったのだろうか。楓の疑問に、本郷が苦笑する。一年生にまで自分の休みが知れ渡っていることは、楓としても確かに奇妙な感じはする。それだけ校内の有名人だということだろう。
「ええ、少々調子を崩しまして。午後から登校したのです」
「……そのまま寝てればいいのに」
自分であったなら、午前を休んだのならば、午後もそのまま休むだろう。なんと勤勉な人物なのであろうか。
「おや、心配してくれるのですか」
本郷が目を細めて楓を見る。そのまま一日寝ていれば、本郷の顔を見ることはなかった、などと楓が考えたことなど、とても悟られたくない。
「そういう石守さんこそ、なにやら具合が悪そうだと聞きましたが」
本郷の言葉に、楓は眉をひそめた。確かに楓は午前中、お腹が空いて力が出なかった。しかしそれを具合が悪いと表現するならば、一年女子のほとんどが、今日は具合が悪かったはずである。
――誰だろ、そんなこと言ったの
思い当たるのは、昼休みに遭遇した平井先生である。軽そうな先生なので、ありえる話だ。
「そういうんじゃありません。ちょっとした、ダイエットです」
『ダイエット!せっかくのムッチリちゃんが!』
本郷の副音声が失礼なことを言った。ムッとした楓の内心を知らず、本郷がほんの少しだけ心配そうな表情をした。
「女性は少々ふっくらしている方が、魅力的だと思いますよ?」
どちらの声も失礼だ。どうせ楓を太っていると言いたいのだろう。
「どうせ、私はふっくらムッチリですよ!失礼します!」
楓は腹立たしいのを隠そうともせずに立ち上がり、その勢いで、生徒指導室を飛び出そうとする。
その腕を、本郷が掴んだ。
「……ムッチリ?」
本郷の口から、そのような言葉が漏れた。副音声が言った言葉が本郷本人の口から出ると、激しい違和感がある。なにごとだろうかと楓が本郷を見ると、彼の眼鏡の奥の瞳が、妖しくゆらめいた。
「本郷先輩?帰りますから離してください」
いつもの楓にしては珍しく、はっきりとした口調で言った。
「いいね、俺の好みだ。感触がたまんねぇな」
「……はい?」
今の声はどっちの声だろう。本郷の口から発した声のはずが、副音声の口調に聞こえた。