その4
泣いて泣いて、どんなに叫んでも。誰も楓を出してはくれなかった。
泣きつかれた楓は障子にもたれるようにして、いつの間にか寝ていたらしい。この部屋には窓がないため、外の様子がわからない。今何時だろうか。そういえば買い物に出た時に持っていた荷物も、着ていたコートもない。
――怖いよ、巽さん
涙で腫れた目を擦ると、視界に入ったものがある。手首につけた腕時計だ。
――巽さんの、腕時計だ
これはとられていなかったらしい。時刻を見ると四時過ぎをさしていた。楓が買い物に出たのが夕方なので、おそらく早朝の四時だろう。
すぐに帰ると言ったのに。帰らなかった楓を、両親が心配しているに違いない。きっと本郷だって。
――そうだ、ぼうっとしてる場合じゃない
腕時計を見ていると、楓は気力がわいてきた。本郷の代理の腕時計が、楓にはある。ちゃんと、一緒にいてくれる。
「そうだよ、泣いてばかりいたら、巽さんが呆れちゃうかも」
楓は声に出して、己を奮い立たせる。楓は自分の心に誓ったのだ。本郷が自分のために努力してくれるのとせめて同じくらいは、自分も努力するのだと。
――よし、頑張ろう!
楓が泣いた跡を消すように、顔を手で擦っていると。
「当主の証書のありかはわかったか」
障子戸越しに、声がした。おそらく楓をここまで引きずってきた男だろう。
びくりと恐怖に身体を震わせたが、楓は腕時計をぎゅっと握った。
「あなたがなにを言っているのか、私にはわかりません」
障子戸の向こうに、楓は震える声で答えた。すると、障子戸の向こうで舌打ちが聞こえた。
「お前は人ならざるものの声を聞く巫女だろう。だからその死体から、当主の証書のありかを聞きだせ。そうすれば放してやる」
妙なことを言う男性だ。楓が聞こえるのは石神様と石たちの声だけだ。一体誰が、そのようなことを男性に吹き込んだのだろう。
「私は、そんなものは聞こえません。だから家に帰して!」
楓の懇願に、男性は笑った。
「ふん、証書のありかを聞き出せば、帰すとも」
男性の言っていることの意味がわからない。死んだ人から聞きだせとか、証書のありかだとか。一体それを、どうして楓がしなければならないのだ。
「私は、死んだ人の声なんて聞こえない!」
楓は力の限り叫んだが、障子戸の向こうからはなにも返ってこなかった。
再び沈黙した障子戸の向こうに、楓はしばらく呼びかけた。
「ねえ、私を家に帰して!」
しかし結果は同じで、なにも返事は帰ってこない。けれども、楓は諦めるわけにはいかない。
――私は、帰るんだ!
楓は腕時計をぎゅっと握り締め、立ち上がる。
障子戸以外に部屋から出られる場所がないか、壁を押したりして丹念に調べるも、やはり出入りするのは障子戸しかなさそうだ。むしろそれが理由で、楓とあの死体はここに入れられたのかもしれない。楓はそう考えて、今まで見ないようにしていた布団に目を向けた。
――この人だって、早くお墓に入れてあげなきゃ
布団に眠る遺体の主は悪くないのだ、と楓は思い直した。ドライアイスに囲まれた布団の、ちょっと離れた場所に座り、手を合わせて拝んだ。
「早く、安らかに眠れますように」
しばしそうしていると、背後の障子から物音がした。
「……?」
またあの男性が来たのかと思ったが、待っていてもなにも起こらない。楓はできるだけ物音を立てないように障子戸に近付き、そろりと動かした。すると、障子戸が開いた。
――開いた!
どうしても開かなかった障子戸が開いたので、楓はおそるおそる廊下に出た。すると廊下のずっと向こうに、あごに白いひげを生やしたおじいさんが立っていた。楓と目が合うと、人差し指を口元に立てて、おいでおいでと手まねきした。
そのおじいさんにひきつけられるように、楓は廊下をそろりそろりと歩いていく。その間誰にも会うこともない。ひょっとして今、ここにはあまり人がいないのかもしれない。
おじいさんのすぐ側までいくと、おじいさんはにこりと笑った。
「可哀想になぁ、こんなところに連れてこられて」
「……あの?」
楓がはなしかけようとすると、おじいさんがまた人差し指を立てた。喋るな、ということだろうか。
「お嬢ちゃんは、帰りたいかい?」
おじいさんの質問に、楓は大きく頷いた。帰りたい、両親のいる家へ、恋しい人の胸の中へ。
おじいさんは再び楓を手招きしながら廊下を歩いた。しばらく歩くと、突き当たりの扉へ行き当たった。
「ここから外へ出られる、だからお帰り。大丈夫、すぐに会える」
おじいさんがそう言うと、扉が音もなく開いた。
「さあお行き。お嬢さんなら、道がわかるはずだ」
楓はなにかに押されるように、外へと足が動いた。外は真っ暗だが、石の声がうるさく騒いでいる。
――そういえば、ヘッドフォンもない
楓の荷物と一緒に没収されたのだろう。あれは形がよかったのに、もう戻ってこないかもしれない。
楓が一歩ずつ歩き出すと。
「手を合わせてくれて、ありがとうお嬢さん」
後ろでおじいさんがそう言った。
「え?」
楓が振り返ると、そこには閉まった扉があるだけだった。
***
類は一宮の別邸を探らせながらも、自身もすぐに出られるように準備を整える。この件を、他人に任せきりにするつもりはない。犯人をこの手で殴ってやらねば気がすまない。
「次期様」
音無家の使用人が、静かに類に寄ってきた。
「電話がありました、音無家の次期宗主殿にと名指しで。相手は名乗らぬ不審な男です」
通常であれば取次ぎはしないだろう。しかし状況を鑑みて、一応類に知らせてきたらしい。
「……出よう、電話を」
使用人が保留中の電話を差し出す。類はそれをとった。
『ああ、音無類さんかなぁ?』
電話の声は、確かに男のものだった。
『今アナタたちにとって大事なお知らせを、伝えようと思ってねぇ』
間延びした喋り方が癇に障る男だ。
「なんだ」
類は不機嫌さを隠そうともせずに、低い声で問いかける。
『巫女様は、××県にある一宮別邸にいるよぉ。可哀想だから、早くしてあげてねぇ』
それだけを喋ると、電話の男は通話を切った。
「なんだ、こいつは」
「類、今の電話は?」
榊が尋ねてくる。それに内容を説明しながら、類は考える。巫女様、というのはおそらく楓のことだ。しかし楓をそのように呼ぶ人間は周りにいない。
「もしかして、こいつが木崎か?」
類はぎゅっと眉根を寄せて考え込んだ。




