その6
楓は今日も朝から、ヘッドフォンをつけて歩いていた。昨日と違うことは、楓の手に紙袋がさげられていることである。
紙袋の中身の品々はお祓いが終わると、楓の気のせいかもしれないが、くすんでいた色合いが明るくなったように見えた。もうあの声たちも聞こえない。これで新井先生も安眠できるだろう。
視線を上げると校門が見えた。今日は本郷につかまらないようにしようと思い、楓は校門前でヘッドフォンを外した。校門では、本郷を遠巻きにして眺める女子生徒が多く見受けられた。あれだけ整った顔をしているのだ。きっと学校中にファンがいるに違いない。
――よし、今日こそは素通りだ
楓はそう決心していたのだが。
「おはようございます」
『よお、ムッチリちゃん』
本郷の方から、楓に近寄ってきた。挨拶をされて無視ができるほど、楓は図太くなかった。そして相変わらず、この副音声は失礼だ。楓が太っていることを、いちいち言われたくない。
「……おはよう、ございます」
周囲のこちらを注視する視線に気がついてしまっては、楓はもう平常の気持ちではいられなくなった。挨拶はしたので、さっさと立ち去ろうとした楓を、本郷が遮る。
「……あ」
本郷が楓の手から、紙袋を取り上げたのだ。
「学業に関係ないものなので、没収です」
中身がなんであるのか、本郷は知っているくせに、そのようなことを言う。楓が困っていると。
「あとで僕から、新井先生に渡しておきます、ご安心を。他人にいちいち詮索されたくないでしょう?」
後半の言葉を、本郷は小声でささやいた。確かに、入学したての新入生が先生に物品を渡している現場は、なにかしら後ろ暗いことを連想されてしまうかもしれない。ここは、本郷の好意をありがたく受けておくことにした。
「……お願いします。それじゃあ」
楓は軽く頭を下げて、昇降口に向かった。風紀委員の校門チェックは、いつまで続くのだろうか。一週間程度で終わるならばいいが。
それから楓が教室に入ると、また昨日の女子生徒がこちらに寄ってきた。
「ねえ、今日も本郷先輩に声をかけられていたね」
「……たまたま、私が目に付いただけだよ」
失敗したと楓は悟った。昨日あれほど本郷と接触しないように気をつけようと決意したことが、全くできていない。
入学三日目にして、本郷は一年女子生徒の間で有名人であった。いつも沈着冷静で物静かな受け答え、容姿も完璧な王子様、というのが、概ねの噂である。だがその怜悧な雰囲気のせいで、近寄って話をするのが困難であるとか。そのような人物と、会話しただけでも騒ぎになるのは、ある意味頷ける。
「なにか荷物を渡してなかった?」
「人に頼まれた物を持ってきてたんだけど、それを没収されたの」
「ふぅん……」
納得しているようには見えないが、一応質問は終えたらしい。昨日と同じく窓際の女子グループに戻って行った。
あの紙袋の受け渡しが、私的なやり取りに見えたのだとしたら、とても危険だ。ひょっとしていっそのこと、新井先生に直に渡した方が、楓としてはよかったのではないだろうか。
――でも私に、あそこで本郷先輩と口論できた?
絶対に無理だ。そして余計に悪目立ちしただろう。こうなっては、なにが正解だったのか、楓にはわからない。
今日の午前中は、新入生への部活動紹介である。体育館の壇上で、様々な部活動がアピールしていた。
楓は中学校では部活に所属していなかった。石の声が気になって、生徒の集団に入っていく気力がなかったのだ。しかし高校生になって、自分としては多少気持ちに余裕ができた気がする。
しかし楓には運動部は無理である。致命的にどんくさい自覚があることから、身体を動かす部活動は除外する。
残るは文化部だが、果たして自分に集団行動ができるであろうか。他人に適応する能力はあると思う。だがいざとなると、やはり尻込みしてしまうのだ。
――大人数でなくて、少人数でまったりとした部活、ないかなぁ。
少なくとも、壇上でやる気に満ちた演説をしている部活動は、自分には無理だと楓は悟った。
今日の午後の授業一つ目は、英語だった。
「ちわーっす」
軽いノリで教室に入ってきた先生は、若い男性だった。背が高くて笑顔が眩しい、イケメンの部類に入る容姿だ。クラスの女子生徒が歓声を上げた。その中で楓は、首を傾げていた。
――なんだろう、どこかで見たことのある顔な気がする
買い物ですれ違ったとか、そういう遭遇かもしれない。イケメンなので楓の印象に強く残っているのだ、きっと。自分の中でそう結論付けた楓と、英語教師の視線が合った。だが一瞬だったので、そう特別なこととは思わず、楓の記憶に残らなかった。
「昨日まで出張でいなかったんですが、実はこのクラスの副担任です。平井涼です、よろしく」
そういえば、入学式の日に担任の田中先生から、副担任は出張中でいないという話を聞いていた。それがこの平井先生らしい。
「では、最初の授業ということで、今日は質問コーナーにしちゃおうかな」
「はいっ!センセーはカノジョいますかぁ?」
クラスの女子生徒が、素早く質問した。
「そいつはトップシークレット!教えられないね」
「えー、全然質問に答えてないじゃん!」
平井先生の答えに、ドッとクラスが沸いた。どうやら、楽しい先生のようだ。だが楓としては、少々苦手なタイプかもしれない。
その後は何事もなく授業を終え、放課後になった。
――今日は寄り道をせずに、真っ直ぐに家に帰ろう
楓がのんびりと昇降口に向かって廊下を歩いていると、背後から声をかけられた。
「石守さん」
振り返ると、新井先生がこちらに向かって歩いてきていた。楓が待っていると、新井先生は小走りに近寄ってくる。
「石守さん、昨日は本当にありがとう。昨夜は嫌な夢を見ないで、ぐっすり寝ちゃった」
新井先生は昨日に比べて顔色がいい。やはりあの石の置物のせいで夢見が悪かったようである。
「今度、ちゃんと神社にお礼をしにいくわ。ご家族によろしく言っておいて」
新井先生の言葉に、余計なおせっかいをした自覚のある楓は、少々気恥ずかしくなる。
「うちの家族にはなにもしなくていいですから。ただお礼参りをしていただけると、石神様が喜びます」
石神様は古い念も好むが、感謝の念もよい風味がしていいそうだ。言いかえるならば、古い念は古酒であり、感謝の念は甘味であるらしい。石神様はグルメなのだ。
「まあ、石守さんたら面白いことを言うのね。神様が喜ぶなんて」
楓の言葉はおかしかったらしい、新井先生は楽しそうに笑った。
「じゃあ神様のためにも、必ず伺うわ。気をつけて帰ってね」
「はい、さようなら」
頭を下げて挨拶すると、楓は新井先生と別れた。
今日の放課後は、本郷と遭遇しなかった。