その2
自宅マンションに帰ってきた巽は、夕飯は石守夫人が包んで持たせてくれたもので済ませ、自室で勉強をしていた。
なにせ今年の巽は受験生である。巽は当然学校側から、有名大学への進学を期待されていた。しかし期待は所詮期待でしかない。
「東大を受けないのかね!?」
「受けません」
夢を膨らませていたらしい教師陣に、巽はきっぱりと断りを入れた。
これが、彼女と出会っていなければ。もしかすると巽は教師の話に頷いていたかもしれない。だがしかし、今の巽には東大を受ける意味がわからない。
――東大に行けば、彼女と離れることになるではないか
巽は父親と進路を相談して、弁護士資格の取得を目指すことにしている。弁護士は様々な業務形態があり、石守神社に婿入りしても仕事ができるからだ。そして弁護士資格は東大でなくても取れる。加えて言えば、巽は東京に出て仕事する気はさらさらない。将来地元で個人事務所を構えることができれば十分だ。なので巽が進学を希望するのは、就職実績のある地元大学である。
このように教師陣に涙を流させたからには、文句のない成績を修めておく必要がある。準備に手抜かりがあってはいけないのだ。なにせ、巽の彼女と暮らすための人生がかかっている。
こうして受験勉強に勤しむ本郷のスマホが鳴ったのは、夜の七時を過ぎた頃だった。鳴っているのは電話で、発信は石守神社である。彼女はいつも自分の携帯電話からかけてくるので、珍しいなと思いつつ、スマホをとった。
「もしもし?」
『ああ本郷くん?楓の母ですが』
思いがけない人からの電話に、巽は驚く。
「どうなさったんですか?」
『あのね、楓はそちらに行ってないかしら?』
「……いいえ、僕が帰る時に、階段下で見送ってもらい、そのままですが」
不穏な会話に、本郷は表情を引き締める。
「楓さんが、どうかしたのですか?」
『お味噌を買いに出かけてきり、帰ってこないのよ。寄り道しないように言っておいたし、楓も頷いていたのに』
石守夫人の動揺が、声から伝わってくる。
「警察には?」
『さっき、主人が相談に行って。でもどうしたら……』
「今からそちらに伺います」
巽はスマホを切ると、すぐに出かける準備をした。巽が走って石守神社に向かうと、石守夫人が階段下にいた。
「ああ、本郷くん」
「楓さんは、帰ってきましたか?」
巽の質問に、夫人は首を横に振る。
「携帯電話にも出ないんですね?」
「電源を切っているみたいなのよ」
夫人は涙声で答える。
彼女の帰りがちょっと遅いな、と夫人も思ったらしいが、巽の家に行ったのかもしれないと思い、だったら送られて帰ってくるだろうと待っていたのだそうだ。それがさすがに遅すぎると、本郷に連絡を入れると同時に警察に相談に行ったのだとか。
彼女は自分が両親に心配されていることを理解した。なのでどこかに寄り道するのなら、ちゃんと連絡を入れるはずである。不用意に心配をかけるような彼女ではない。
「警察はなんと?」
「幸運にも主人の知り合いがつかまって。今スーパーの監視カメラを調べてくれているそうで」
「それはよかった」
彼女のような高校生では、警察は遊んでいるだけだろうと言って相手にしない場合もある。すぐに動いてくれたのは僥倖であろう。
外は冷えるので、巽は夫人を促して神社に入った。祈るような気持ちで連絡を待っていると、石守氏が中年男性を伴って戻ってきた。
「ああ本郷くん、来ていたのか」
「楓さんは?」
巽は挨拶ももどかしく、本題を切り出した。それに答えたのは、石守氏と一緒にいた男性である。彼は地元の刑事だと名乗った。
「スーパーのカメラで姿を確認できた。楓ちゃんは駐車場で、怪しい車に連れ込まれている」
巽は息をのんだ。女性が車に連れ込まれたとあっては、その目的は一つしか思い浮かばない。同じ思いなのだろう、夫人の顔色が真っ青になった。男性が夫人を励ますように、肩を叩いた。
「今車のナンバーを調べている。けどな目撃者が言うには、攫っていくには妙に目立つ車だったそうだ」
「目立つ、とは」
巽の質問に、男性が答える。
「なんだか黒塗りの、大きな車だったとか。いわゆる金持ちが使っていそうな」
怪しい車がずっと停まっていると、スーパーの店員が警察に通報もしていたのだそうだ。正月で閑散とした駐車場に長時間停車していたので、とても目立っていたらしい。それで監視カメラの映像が準備されていたため、特定が早かったと告げられる。
不幸な出来事であるが、幸運が重なっている。
――彼女は、神様に愛されているひとだ
だから巽が希望を捨ててはいけない。
「それならば、案外持ち主の特定がし易いのでは?」
「俺もそう願っているがね」
ここで、夕飯がまだだという石守夫妻に、巽は夕食をとるように勧めた。待っている両親になにかあっては、彼女も悲しむだろう。そんな巽の説得に、二人は準備してあった夕食を食べた。ついでに夕食がまだだという刑事の男性も一緒に。
食事をしながら、夫人は彼女がスーパーに行った理由を話してくれた。巽に味噌煮込みを作ってやりたい、と言って味噌を買いに行ったのだと。
「僕のためですか」
確かに彼女に昼間手料理のリクエストを聞かれ、巽はそろそろ味噌味が食べたいと答えた。そのために買い物に行った先で、このような事件になるなんて。巽は手をぎゅっと握り締めて、叫びたい衝動に耐えた。
夕食を食べて、夫婦が気力を持ち直した頃。男性の携帯電話が鳴った。
「車の持ち主が特定できた。けどな、やっかいな奴が引っかかったぞ」
男性が、厳しい表情でそう告げた。
***
次に楓が気が付いたのは、和室であった。
――なに、どこ?
ぼんやりとした頭で、楓は周囲を見渡す。六畳ほどの和室の真ん中に敷かれている布団に、楓は寝ていた。明かりはついておらず、隅にある小さな照明だけの薄暗い部屋だ。楓の部屋でも本郷の部屋でもない。
状況がおかしいとわかっているのに、楓は頭がぼんやりとしてまとまらない。心の中では必死に自分と戦っている楓だが、一見するとぼんやりと布団の上に座っているように見える。
すると、急に和室の障子戸が開いた。
「起きたのか」
楓の父親くらいの年齢に見える男性が、和室に入ってきて楓を一瞥した。楓はそちらを見上げる。
「……薬の量を間違えたな、これで使い物になるのか」
楓の様子を見て、男性が忌々しそうに舌打ちをする。
――誰?
そう疑問を持つも、楓ぼんやりと男性を見つめているだけだ。
「まあいい、こちらへ来い」
男性が楓に近付くと、強引に腕を引っ張り上げる。
――痛い!
顔をしかめる楓に構わず、男性は引きずるように楓を和室の外に連れ出す。なんとか痛みを和らげようと、楓はよろよろと歩いて付いていく。男性に連れられて長い廊下を歩くが、その間楓は誰とも行き会わない。廊下から伺える様子だと、結構広い日本家屋のお屋敷のようだ。外は暗く、もう夜も遅い時間なのかもしれない。
長い距離を歩かされて、楓はどこかの和室に放り込まれる。畳の上に転がるようにする楓を、男性は冷たい目つきで見下ろしている。
「巫女だというのなら、仕事をしてもらおうか」
ふん、と鼻で笑った男性は、部屋の奥を顎で示した。
「そこに寝ている男から、当主の証書のありかを聞き出すのだ」
それだけを言い放つと、男性は障子戸を閉めた。
楓はしばらく畳の上に転がっているままであったが、やがてしっかりと思考できるようになってきた。ぐっと腕に力をこめて、起き上がる。
改めて部屋を見回してみると、先ほど楓が寝かされていた部屋よりもずっと広く、妙に煙たい。その原因は焚かれている香の煙のようで、楓はむせ返るように咳き込んだ。
そして男性が示した場所には、布団が敷かれてあった。誰かが寝ているようで、深く布団が被せてある。
「あの……?」
恐る恐る楓はそちらに近付くが、すぐに異変に気付く。顔に白い布が被せてあり、周囲にはドライアイスが敷き込められている。
「ひっ!」
楓は必死に後ずさり、男が閉めた障子戸へ背中をぶつける。
――この人、死んでる!?
この部屋から逃げ出そうと、楓は障子戸に手をかける。しかしガタガタと音をたてるだけで、障子戸は開かない。
「誰か、出して、ここから出して!」
楓の恐怖の悲鳴は、しかし誰にも届かなかった。




