その5
今日は土曜日。いつもは楓は巫女のアルバイトをして、本郷は弓道場にいる時間だ。だが今日は、朝から大勢の人が出入りしていた。
「みなさん、お疲れ様です」
朝からひな壇状の観覧席の組み立てをする男性たちに、楓は冷たいお茶を配ってまわる。
「おう楓ちゃんありがとよ。おーい婿殿、休憩だぞ」
「はい、今行きます」
観覧席の上に登って作業していた本郷が、すぐに返事をする。
――婿殿ってなに!?
楓のいないところで、一体どのような話になっているのか。挙動不審になる楓に、男性たちは笑っていた。
「いいねぇ、初々しくて」
「もう、からかわないでください」
膨れっ面をして見せた楓に、やってきた本郷が後ろから肩を抱いた。
「楓さん、遊ばれないように」
「おう、婿殿に叱られちまう」
そう言って男性たちは退散していく。
二人になった楓は、本郷をいつもの勉強部屋に誘った。
「巽さん、熱中症に注意ですよ」
楓は本郷の口の中に、熱中症対策飴なるものを放り込んだ。この飴は塩分補給ができるという優れものである。
「間違えずに言えましたね、楓さん」
口の中で飴を転がしながら、本郷がそんなことを言う。
「……だって、昨日あんなに練習しましたもん」
楓は頬を赤く染めて本郷を見た。
この「巽さん」という呼び名がすんなりと出るまで、昨日楓は本郷宅で特訓されていたりする。文字通り身体に教え込まれるやり方のせいで、ただいまの楓は腰が重いどころか下半身がだるい。
――でも、柔軟体操が役に立ったね
毎日の習慣に感謝である。
こんな楓の腰を本郷が優しく撫でてくる。
「そちらこそ無理をしないように。僕の楓さんの身体を、労わってください」
「巽さんのバカ……」
楓はとりあえず休憩の間、本郷に腰を揉んでもらうことになった。
「そういえば。巽さんの腕時計、効果があったみたいです」
本郷にマッサージをされながら、楓は腕を上げて時計を見せた。
「あれから学校で、男子が寄ってきません」
その代わり遠巻きに視線を感じるのだが、突撃されるよりはいいだろう。
「それはよかった。楓さんを守れたとあれば、その腕時計も本望でしょう」
楓の腰を優しく揉んでいる本郷が、満足気に言う。
「私もね、ちょっと嬉しい。いつも巽さんと一緒みたいで」
「そうですね、その腕時計は僕の代理で、楓さんの側にいるんですよ」
「ふふ、いつでも繋がってるんですね」
楓が微笑むと、本郷が腰を揉みながら、楓のうなじに口付けた。
そんな休憩時間をはさみつつ、楓はお守り売り場から本郷の奮闘を見守っていた。ちなみに腰を労わるために、たくさんのクッションを持ち込んである。
楓がぼうっと本郷を見ていると。
「今宵も花火見物ができるようじゃな」
楓は声をかけられてそちらを向いた。
そこには古風な着物を着た女性がいた。名前は知らないが、毎年花火見物に来るお客さんである。楓の子供の頃から、毎年花火大会の日に遠方から神社へやって来るのだ。
「今年も来たんですね、今日も楽しんでくださいね」
笑顔で挨拶する楓に、女性は含み笑いをする。
「ふふ、ちょっと挨拶でもしてくるかの」
このあたりの知り合いに挨拶をするとかで、女性は去っていく。その際、するりと楓の頭を撫でていった。
女性をなんとなく見送っていると。
「あれ、ちょっと腰が楽になったかも」
何故だろうかと、楓は首を傾げた。
観覧席が完成して、夕方になるとご近所さんが集まってくる。境内には鉄板が熱され、バーベキューの準備が始まっていた。生ビールのサーバーも運ばれてきて、境内はちょっとしたビアガーデンに様変わりしていた。
楓も巫女装束から浴衣に着替えて、準備万端だ。すると本郷も楓の自宅から浴衣に着替えて出てきた。本郷は浴衣の着付けも出来るらしい。本当になんでも出来る男である、料理以外は。
「巽さん、かっこいいですよ」
「楓さんこそ、可愛らしいですよ。他の男に見せたくなくなりますね」
浴衣に合わせて、いつもおさげにしている髪型をお団子にしていた。それで露になった首筋を、本郷がするりと撫でた。
「ここに痕をつけたくなります」
ここで、楓はふと以前クラスメイトに言われた話を思い出した。背中のキスマークである。
「そうだ巽さん、無断で痕つけるのはやめてください!恥ずかしいです!」
「おや、いきなりなんでしょうか?」
すっとぼける本郷に、楓は頬を膨らませる。
「もう、背中にキスマークつけてるでしょう!クラスの女子に言われて、恥ずかしかったんですから!」
そう言えば、さきほどの休憩の時もうなじに口付けられた。本郷の唇が触れた場所を、楓が触ると。
「大丈夫、さっきはつけてませんから」
本郷が微笑んだ。
「あんまり楓さんが可愛いので、つい勢いで吸い付いてしまうんです。こればかりは、自分でもどうしようもないですね」
本郷が爽やかな笑顔で言い切る。口だけの謝罪をしないことは、ある意味正直である。
「それでも、見える場所には控えているんですよ?背中以外には、脚の付け根ですかね」
しかも追加情報を暴露してくる。背中にしろ脚の付け根にしろ、鏡でも使わなければ、楓には確認できない場所である。
「後で、一緒に確認しましょうか?」
「もう、巽さんのエッチ」
耳元で囁かれ、楓は頬を赤く染める。
「そのエッチな男が、楓さんの恋人ですよ」
結局、楓では本郷に勝てないのだった。
楓は焼きあがったバーベキューを味見させてもらいながら、観覧席に本郷と並んで座った。
「ほら、楓さん口を開けて」
楓が開けた口の中に、本郷が焼けた肉の串を入れてくれる。
「ん、美味しい」
浴衣を汚さないように、楓は注意して頬張った。楓が口をもごもごしていると。
「そういえば楓さんは、元気になったようですね」
ふと気が付いたように本郷が言ってきた。
「腰が重いのが直りました」
あれから不思議と身体が楽になったのだ。腰以外でも関節などがギシギシいっていたのだが、今はなんともない。
「楓さんが元気になると、僕も嬉しいです」
「朝私が元気じゃなかったのは、ほとんど巽さんのせいですよ」
ほんのちょっとの腹立たしさをこめて、楓は本郷の手の甲を抓る。
「恋人が続けて男に告白をされれば、自分のものだとマーキングをしておきたくなるじゃないですか」
抓られた手をさすりながら、あくまで本郷は悪びれない。
二人で痴話喧嘩とも呼べない言い合いをしていると。
「楓ちゃん発見!」
橋本姉妹が浴衣を着て神社の境内にやってきた。その後ろに平井先生と新井先生もいる。
「みんな、いらっしゃい!」
楓は四人に手を振った。
「なんか、ビアガーデンみたいだな」
すでに盛り上がっている近所の大人たちを見て、平井先生が感心している。普段の神社の雰囲気とはまったく違っているからだろう。
「ふふ、先生たちも飲んでくださいね。お代はお賽銭でどうぞ」
楓が冗談めかしてそう言った。
これは近所の身内ばかりで集まるビアパーティなのだ。この飲み食いの代金は、石守神社と町内会から出ている。
大人はビールを、学生たちはジュースを持って、それぞれ観覧席に座る。
花火が打ちあがりだすと、境内はいっそう盛り上がる。
「贅沢な花火見物だな」
莉奈が焼きそばを頬張りながら、そんな感想を漏らした。それに楓は小さく笑った。
「ご近所だけの、内緒の特等席なんですよ」
石守神社の花火観覧は、自治体の広報にも載せていないひっそりとしたイベントだ。昔から近所で食べ物を持ち寄って花火を見ていたものが、これだけ大々的になっただけである。
「わぁ、大きい!」
夜空に一際大きな花火が上がり、寧々が歓声を上げた。




