その7
兄は今日東京に戻ると聞いていた。だが、こんな偶然があるのだろうか。楓は眩暈がする思いだ。
「楓はじーさんの友達の家に行ったんじゃないのか。どうして東京にいるんだ」
兄が眼光するどく楓を睨み、問いつめるように言う。
それを制したのは本郷だった。
「楓さん、人目をひいています。とりあえず移動しましょう」
「……はい」
本郷に促されて、トイレへ向かう通路へと移動した。兄が当然のようについてくる。
ホーム周辺よりも人が減ったとはいえ、それでも行き交う人の姿はある。好奇の視線に晒されていることに、楓が気後れしていると。
「楓、そいつは誰だ」
兄がぶっきらぼうに聞いてきた。
「本郷先輩、私の恋人だよ」
楓はどもらないように、はっきりと言った。
――私がちゃんとしなきゃ!
楓は深呼吸して兄を真っ直ぐに見る。すると。
「婚約者とも言えますね」
その楓の横で、輝かんばかりの笑顔で本郷が告げた。
――はい?
楓が思わず問い返そうとした言葉を飲み込むと、本郷が楓を腕に抱えあげた。
「きゃっ!」
突然のことに、楓はバランスを崩しそうになり、本郷の首にしがみ付く。そんな楓の頬に、本郷が口付けを落とした。
「楓さんとお付き合いをしておりまして、ゆくゆくは結婚する予定なのです。そのために今日は僕の父と会ってもらうことになりました。そちらのご両親への挨拶は済んでいますし」
楓にも初耳の話を本郷が始めた。
「結婚だと!?」
兄の驚愕に構うことなく、本郷は話を続ける。
「ええ、楓さんの花嫁衣裳は、今からとても楽しみです。お兄様もぜひご出席くださいね」
「楓、お前……」
「それに、すぐに子供もできるでしょうね。なにしろ僕ら、そちらの相性も抜群にいいみたいですし。とにかく楓さんがとても可愛らしいものですから、つい熱くなってしまうのが難点ですね」
本郷が楓を抱えなおし、頬ずりしてくる。
「や、先輩ってば」
行き交う人々の視線が痛い。どこのバカップルだ、と思われているに違いない。
「楓さん、腰は大丈夫ですか?」
鼻先をくっつけるようにしながら、そのようなことを言われた。今まで口を挟む間もなかったので、楓はいきなり話を振られてきょとんとする。
「……?まだちょっと、辛いです」
長時間の電車移動で、楓は腰が痛かった。足腰に自信があるのは本当だが、それとこれとは話が別らしい。
「僕のせいで昨夜は遅かったですからね。もし万が一のことがあれば、すぐに言ってくださいね。直ちにご両親に頭を下げに行きますから」
確かに昨夜は遅くまで梓たちとおしゃべりをして夜更かししした。楓はなにを言われているのかよくわかっていなかったが、とりあえず頷いておいた。本郷に優しくお腹のあたりを触られると、くすぐったくて思わず笑みがこぼれた。
兄は、真っ赤な顔で口をパクパクさせている。
「兄さん、あのね」
本郷の畳み掛けるような会話に、楓は口を挟めずにいたが、ようやく間ができたことで話しかけたのだが。
「くそっ……!」
兄はそう悪態をつくと、足早に人混みにまぎれるように去っていってしまった。
楓と本郷は置いていかれたようになった。
「えっと、先輩?」
どうなってしまったのか、楓にはさっぱりわからない。一方の本郷は満足そうだ。
「あれだけ言えば大丈夫でしょうかね。不毛なことをしないで、ちゃんとしたお付き合いをすれば、きっと収まるでしょう」
そう言って、本郷が楓を下ろした。
「そう、ですか?」
楓には謎な会話であったが、本郷には状況が理解できているらしい。
「ええ、お兄さんは上手く誤解してくれました。ですが楓さんとの子供が欲しいと思う気持ちに偽りなしです」
にっこり笑顔で言われた。
「楓さんが高校を卒業するまでは、万が一がないようにも勤めますよ」
ここで、楓はようやくさきほどの会話の内容が脳に浸透する。
そちらの相性も抜群にいい、もし万が一のことがあれば。これはもしかして、本郷とベッドの上で過ごす時の話だったりするのだろうか。
「え、ひょっとしてさっきの、そういう話だったんですか!?」
楓がぎょっとして見上げると、本郷はなんともいえない笑顔で楓を見ていた。
――こんな大勢の人が通る場所で!?
改めて本郷の言っていた内容を思い出す。確かに、夜に激しく抱かれた後であるとも取れる言い方だった。
「あくまでお兄さんの中では、ですが」
本郷がしれっとした顔で言い訳する。
「先輩のばか……」
今更顔を赤く染めてしまった楓を、本郷が懸命に宥めてくるのだった。
それからしばらくして赤面が収まった楓は、地下鉄に乗って本郷の実家へと向かった。
大企業の社長の家ということで、大豪邸をイメージしていた楓だが、予想よりもこじんまりとしていた。
――いや、私の家よりずっと広いんだけど
それでも、ちょっと広めの戸建ての家という印象だ。そう素直に本郷に感想を伝えると。
「言わんとすることはわかりますが。今の父は一人暮らしで、あまり広すぎても管理に困りますしね」
と答えが返ってきた。なるほど、納得である。
本郷の持つ鍵で家に入り、楓の荷物は客間に置いた。そして案内されたのは、本郷の部屋である。
「わぁ……」
マンションの部屋よりも、ずっと物がたくさんあった。あちらの部屋には一年ちょっとしか滞在していないので、当然といえるだろう。
本郷のイメージだと、本棚に難しい専門書がずらりと並んでいるように思える。しかし実際には教科書関連の他に漫画なども多くあった。
「先輩も、漫画を買うんですね」
「僕もそれなりに読みますよ」
本郷が苦笑していた。昔から音無共々、よく言われたことなのだそうだ。特に音無は昔から「美少年霊能者」としてマスコミに騒がれたこともあり、漫画などを買い辛かったのだとか。インターネット通販しようにも、実家に送るのはまずい。そんな理由で、本郷が代理として本屋に買いに行ったこともしばしばあったのだとか。
「有名人も大変なんですねぇ」
「僕もそう思います」
こんなふうに本郷の部屋を捜索していると、すぐに時間が過ぎた。楓は再び本郷に連れられて外出した。レストランに予約を入れてあり、そこに本郷の父親が直接来るらしい。
「先輩、私普段着しか持ってきてない」
しかも響家で洗濯させてもらえばいいと思って、持ってきた服も多くない。
「それは父さんも承知です。その格好で十分です」
楓が服装を気にすると、本郷が軽い調子で答えた。実際本郷も普段着であるので、そんなものかと楓も納得する。ちょっと東京という場所を意識しすぎているのかもしれない。
タクシーを使ってレストランに行き、名前を告げると店員に案内された。本郷の父親はまだ到着していないようだ。
「なんだか、ドキドキします」
「それはわかります。僕も初めて楓さんのお宅を訪問した際は、とても緊張しましたから」
「そうなんですか?」
本郷はいつも冷静に応対して見えたのだが、内心はそうでもなかったらしい。そんな会話をしていると、待ち人がやってきた。
「やあ、楓さん待たせましたね」
本郷の父親がやってきた。テレビ画面越しでなく実際に見ると、兄弟のどちらかといえば平井先生の方により似ている気がする。
「あの、初めまして石守楓です」
「かしこまることはないよ。これから人生を通しての付き合いになるのだからね」
固い挨拶をした楓に、本郷の父親は笑顔でそう言った。
――人生を通してって、お嫁さんになるってこと?
楓はふいに、東京駅での会話を思い出した。結婚の挨拶をしに来たのだと兄に言っていた本郷。
――あれは兄さんへの、先輩の方便だから!
急に俯いてもじもじしてしまった楓に、本郷が苦笑する。
「楓さん、冗談を深刻に考えてはいけませんよ」
「先輩も、冗談ですか?」
恨めしそうに見つめる楓に、本郷は微笑んだ。
「それこそ冗談ですね、僕はいつでも本気ですよ」
「はい?」
首を傾げる楓に、本郷は笑みを深める。
「言ったでしょう、楓さんとの子供が欲しいと。さすがに学生出産はリスクが高いですから、きちんと避妊しつつ待ちますが」
本郷は父親の前で、大胆発言をした。
――先輩ってば!
顔を真っ赤にした楓の前で、本郷の父親が固まっている。このような話をされても父親として困るだろう、と楓が思っていると。
「巽お前、病気が治ったのか!」
急に本郷の父親が、席から立ち上がった。本郷は穏やかな表情で答える。
「いいえ、そもそも病気などではなかったんです。単に好みの問題だったようですね。今はこの通り、楓さんに正常に反応しますから」
ここで楓は本郷に以前聞いた話を思い出した。本郷は楓に会う以前、性機能に障害があるのではと疑われていたのだ。
「そうか、私は巽の子供が抱けるのだな」
「はい、そうお待たせすることもないでしょうね」
本郷のこの言い方では、まるで自分たちが日々子作りに励んでいる新婚夫婦みたいだ。
「あの先輩、そろそろ恥ずかしいです……」
盛り上がる親子の横で、楓は消え入りそうな声で懇願した。
その後は、小さい頃の本郷の話を聞いたりして、楓はとても楽しい時間を過ごした。




