その6
楓は夜中に目を覚ました。
「……トイレ」
寝る前にペットボトルのお茶を飲んだせいか、楓はトイレに行きたくなった。だが当然、周囲は真っ暗。山の中であるためか、自宅の夜よりも、闇が深い気がする。
隣を見ると、莉奈も寧々もぐっすり寝ている。楓のトイレのためだけに、起こすわけにはいかない。
――トイレが怖いとか、子供じゃあるまいし
自分にそう言い聞かせ、気持ちを奮い立たせる。そろりと音を立てないように障子戸を開け、廊下に出る。廊下も当然真っ暗で、楓は壁伝いに進んでいく。廊下の板がギシギシと音を立てるたびに、楓の心臓がバクバクする。
――こわいぃ、お化けとか出そう
なんと言っても、昼間に武者鎧が歩き出すという怪奇現象があったのだ。お化けくらい出てもおかしくはない。それでも、朝までトイレを我慢することは出来そうにない。楓は勇気を出して、一歩一歩進んでいく。
ギシッ
自分の足音ではない、廊下がきしむ音が聞こえた気がする。楓は思わず立ち止まり、耳を澄ませる。
ギシッ、ギシッ
やはり、音がする。その音は、楓に向かって近付いてくるように思えた。
――やだ、やだやだ!お化けやだ!
壁に縋りつくようにして立っているも、その音はだんだんと大きくなる。
ギシッ、ギシッギシッ
楓はすぐ側までやってきている音に、へたりと床に崩れ落ちる。
――やだよ、助けて先輩!
自らを守るように、ぎゅっと丸くなって目を閉じる。
「……楓さん?」
すると、頭上から声がした。楓はそろそろと顔を上げる。
そこにいたのは本郷だった。
「そんな所にしゃがんで、なにをしているんですか?」
「せんぱいぃ~……」
その姿を認めたとたん、楓の目から涙が溢れ出した。急に泣き出した楓にぎょっとした本郷が、慌ててしゃがんで目線を合わせてくる。
「どうしたんですか!?」
「ぐすっ、おどかさないで、くださいいぃ」
泣きながら訴える楓に、本郷も訳を悟ったらしい。
「僕をお化けかと思ったんですか?楓さんは、本当に怖がりですね」
背中を優しく撫でてくる本郷に、楓はぎゅっと抱きつく。
「せんぱい、せんぱい」
「はいはい、なんでしょう」
本郷が宥めるように、楓に返事をする。
楓は恥ずかしいのを承知で、暴露した。
「あの、おトイレ……漏れそう」
お化けショックがいけなかったらしい。
結構切羽詰った楓の様子に、本郷が速やかにトイレへと抱え上げて連れて行ってくれた。
本郷も楓同様、トイレに行った帰りだったらしい。楓はトイレの前で下ろされる。
「先輩、そこにいてください」
「わかってますよ」
「絶対に、帰らないでね」
「待ってますから、ちゃんと」
トイレのドア越しにそんな会話をしながら、楓は無事に用を足すことができた。
トイレから部屋に戻るのに、楓は本郷に手を引かれて廊下を歩く。
「先輩がいけないんですよ、脅かすから」
「まあ、そうですね。あまり音を立ててもうるさいかと、ゆっくり歩いていたのも、誤解の元かもしれませんね」
まだぐずる楓に、本郷も苦笑気味に返事をする。
「あんまり怖くて、すっかり目が覚めました」
「おや、それはいけませんね」
このまま眠れそうにない楓のために、本郷が縁側の方へ誘ってくれた。
「……わぁ」
縁側では、ガラス戸越しに星空が見えた。
「ここは山の中ですから。星空が綺麗ですね」
本郷が星空の見える廊下に座った。
「楓さん、どうぞ」
本郷が自分の前を手で示す。楓は本郷を背もたれにして、脚の間にちょこんと座る。これが二人きりで会話するときの、いつもの体勢だ。
「先輩はちゃんと私を甘やかすべきです」
お腹に回された腕をぎゅっと握って、楓は恨み言を言う。
「本当に、怖かったんですから」
「わかってますよ。楓さんは怖がりで可愛い、僕の恋人ですから」
むくれる楓を本郷が慰める。今まで寝ていたので、楓は当然パジャマを着ているし、髪も下ろしたままだ。本郷が楓の髪を、優しく梳いていく。
「先輩、星がすごいです」
「夜中にトイレに起きたのも、悪いことばかりではないでしょう?」
夜の山は冷える。夏であっても、本郷とくっついていると心地よい温もりを感じる。
「ところで楓さん、下着をつけてないんですね」
後ろから抱いている感触に、本郷が尋ねる。
「だってパジャマですもん。ブラしてると寝苦しいです」
「女性はそういうものですか」
本郷が布一枚でしか守られていない、楓の胸の感触を確かめるように触れてくる。
『先輩、楓ちゃんのおっぱいが絶対に大好きだよね?』
寝る前に聞いた、寧々の言葉が脳裏に蘇る。
「ねえ先輩、私の胸、好き?」
「好きですよ。楓さんの全部が好きですが、胸は特に好きかもしれませんね」
正直すぎる本郷の本音に、楓は恥じらうと同時に困ってしまう。
――私は先輩のどこが好き?って聞かれたら、どこだろう
顔と答えればただの面食いだし、ちょっと違う気がする。格好いいことはわかっているが、最初はこの完璧な容姿が近寄り難くて怖かったのだから。では筋肉とかはどうだろう。楓は本郷が弓を引いている姿は好きだ。あの弓を引くのに、とても固い筋肉が本郷にはある。
――うん、そうだ
「私は、先輩の固いところが好きです」
自分の中で正解を見つけて、楓は笑顔でそう言った。が、本郷がピシリと硬直した。
「先輩?」
なにごとかと、楓が首を傾げる。
「楓さん、もう少し詳しい説明を求めます」
「え?えっと、弓を引く時の先輩の筋肉が、すごく固そうなところが、私の好きなところかな、と」
楓の考えをそのまま伝えると、本郷が脱力してため息をついた。
「楓さん、くれぐれも、言葉を省略しないように」
「はい……?」
どうやら、楓がいけないことを言ってしまったらしい。
「なにやら、僕まで頭が冴えました」
それに対して、楓はふふっと笑う。
「これで、お互い様ですよ」
「いけない人だ、恋人をからかうなんて」
首筋に顔を埋めてくる本郷に、楓はくすぐったいのを耐える。
「そうだ、楓さん」
しばらく二人で静かに星を眺めていると、本郷が声を上げた。
「キスをしていませんでしたね。一日ずっと一緒にいたのに」
そう言って、本郷は楓を横抱きの体勢に変える。
「楓さんは、キスが好きですよね」
「はい、好きです」
薄く唇を開けて待ち受ける楓に、本郷の口付けが落とされる。わざと音を立てるようにして交わされるそれに、楓も夢中になる。
「楓さんこのまま、男部屋に寄り道して帰りますか?」
「先生に叱られちゃいますよ、風紀委員長」
二人で顔を見合わせて、笑いあった。
ようやく眠気が訪れた楓を、本郷が女部屋まで送ってくれた。
「それではおやすみなさい、楓さん」
「先輩おやすみなさい」
身体に残る本郷の温もりを想いながら、楓はすぐに眠ってしまった。




