その1
ようやく梅雨が明け、夏本番がやってくる。
学校はもうすぐ夏休みに入る。そのため、みんなどこか浮ついている雰囲気が漂っていた。
本郷とのお付き合いは、順調と言える。橋本姉妹に本郷との交際を報告すると、二人ともお昼のデザートでお祝いをしてくれた。セクハラ事件を経ての交際であるため、莉奈は本郷に再びきつくお灸を据えたそうだ。
楓と本郷は、学校ではお互い今まで通りに過ごしていた。だが放課後になると、楓は毎日本郷の家に寄るようになった。二人で一緒に宿題をしたり、帰りが遅い平井先生のためにご飯をセットして味噌汁だけでも作ったりしている。
告白し合った日から次の土曜日に、石守神社を尋ねた本郷は楓の両親に挨拶をした。
「楓さんとお付き合いをすることになりました。今後ともよろしくお願いいたします」
礼儀正しく頭を下げる本郷に、父親は目を丸くして、母親は思案するような顔をした。
「本郷くんはその、東京に帰るのかい?会社の跡取りなんだろう?」
「いいえ、この土地の空気が合うのであれば、無理に帰ることはないと言われております。会社を継ぐのは父の部下に決まっていますし」
本郷が楓も初耳の話をする。そして本郷と父親が、無言で見詰め合っている。
あっけにとられている楓の前で、母親はため息をついた。
「楓はぼんやりしたところのある娘だし。このくらい段取り上手が、案外いいのかもねぇ」
なんと、母親が納得しようとしていた。
「あの、お母さん。それでいいの?」
「いいじゃない、頼りになる男手ができたと思えば」
この母の合理的一言で、楓と本郷のお付き合いは認められた。
楓はうっかり「付き合ってください」を勢い余って「もらってください」に変換してしまった。そのせいで本気になった本郷によって、楓の大人の階段は、限りなく直角に近い角度のものに架け替えられてしまった。つい数ヶ月前まで服装などに全く気を使わなかった自分が、日々の下着のデザインに神経を割くなんて、どうして考えられただろうか。
二人きりの際の本郷は、楓を後ろから抱きしめて首筋に顔を埋める姿勢を好んでとる。やわらかい楓の身体を、全身で感じられるのだとか。
本郷は、自身が幼い頃に両親が離婚していて、母親に構われた記憶がないのだそうだ。世話をしていたのは家政婦さんで、父親は仕事で早くに帰れない日が多かった。一人で遊んで一人で食事をする子供時代だったという。
なので女性のやわらかさを求めるのは、母親への憧れが強いのではないか、と新井先生が解説していた。
「だって、やわらかい女性の胸は母性の象徴みたいなものですもの」
という説明からすると、楓の胸がいつも本郷に揉まれているのは、仕方がないことであるという結論に至ってしまう。
ついこの間、橋本姉妹とランジェリーショップなるものに、楓は初めて行った。
楓は今まで下着に気を配っていなかった。なので持っているブラジャーは一切飾りのない白かベージュの二色であった。もちろん上下でデザインが揃うものなどない。これはあんまりではなかろうか、と一念発起したのだ。
橋本姉妹に下着のことを相談すると、可愛い下着が手頃な値段である店を教えてくれた。そして先日二人に連れて行ってもらったのだ。
その際店員のお姉さんにサイズを測られた。すると今のサイズが小さいことが判明した。
「……腫れちゃった!?」
と思わずこぼした楓に、お姉さんは微妙な顔をしていた。変なことを言ってしまったようだ。
「成長期ですから、大きくなるものですよ」
と言われたが、絶対本郷に揉まれすぎだと楓は思った。あの時の橋本姉妹の、生温い微笑をわすれない。
「絶対に先輩が、揉みすぎなんです」
楓がその時の恥ずかしさを本郷にぶつけると。
「楓さんも、言うようになりましたね」
と逆に褒められてしまった。
今も楓は本郷宅のキッチンに立っていた。本郷と平井先生の夕飯準備のためだ。ご飯と味噌汁ができていれば、メインはお惣菜でも構わないらしい。難しい料理は一人では無理だが、味噌汁であれば楓にも作れる。ご飯と味噌汁のある食卓に、平井先生が喜んでいた。兄弟の今までの食卓事情は、あまりよろしくなかったようだ。
それを聞いた楓の母親が、土曜日の本郷の帰りに、おかずを持たせるようになった。
「そうそう、父の友人なのですが。僕らが夏休みに入ったら蔵を開くそうですよ」
エプロンを着けて味噌汁を作っている楓に、本郷がカウンター越しに話しかけた。
「え、先輩のお父さんの、お友達ですか?」
突然なんの話をされたのかわからず、楓は包丁を持ったまま首を傾げる。
「さては楓さん、忘れてますね。蔵の整理を手伝ってほしいという話ですよ」
「……あ」
すっかり忘れていた。確かにそんな話をされたことがある。あれは本郷に告白されつつ押し倒された、一週間ほど前の話である。この後は、楓にとっての人生の大事件だったので、その話のことをすっかり忘れていた。
「ひょっとしたら珍しいものがあったりするかもしれません。橋本姉妹も誘って、みんなで行きましょうね」
「……やっぱり、行くんですか」
また変なオカルト現象に行き当たったら怖い。そんな気持ちを込めて本郷を見る。
「本当に怖かったら、抱えて逃げてあげますから。お宝発掘くらいの気軽さで考えましょう。父がなにを言ったのか、先方が楽しみに待ってらっしゃるようなのですよ」
本郷が苦笑する。どうやら断り辛い状況らしい。
「兄さんが同行して、車を出してくれるそうです。ちょっと山に入りますから、ドライブ気分で行きましょう」
どうやら今回は、新井先生と平井先生も一緒に行くらしい。
『邪魔者もいるが、ムッチリちゃんと外デートだ』
副音声の言葉に、楓の心が浮上する。外でデートは、恋人同士になってからしたことがない。学校の生徒に見られたら、という杞憂があるためだ。
「美味しいものがあったら、寧々ちゃんが喜びますね」
「むしろ調べてきそうです」
その言葉に、楓はようやく笑った。
***
巽が彼女、石守楓と交際を始めて一月が経過した。
巽は交際当初自分の内面をうまく制御できず、彼女に大変な無理をさせてしまった。しかし彼女と過ごす時間を重ねていくうちに、だんだんと巽の中の欲望が、消えることはなくとも、穏やかなものになっていく。欠けていたものが満たされ、満足したのかもしれない。
交際を始めたばかりの頃は、巽は二人きりでいる時には、彼女を自室で抱きしめたままで過ごすことがほとんどだった。しかし今では、二人でリビングでテレビを見たり、宿題を教えたり、たまに神社の手伝いをしたりしている。彼女と肌を触れ合わせていなくとも、不安を感じなくなった。
「小学生が中学生になったな」
と兄にはからかわれた。独占欲のみで動こうとするのを、我慢できるようになったらしい。
そして交際を始めたことを知った橋本莉奈から、「石守楓の取り扱いについて」を懇々と説明された。橋本莉奈には女子との間を取ってもらったり、彼女のことでいろいろと忠告をもらったりしている。頭が上がらない自覚がある巽だった。
「先輩、今日はお母さんにレシピを教えてもらったんですよ」
今も彼女はキッチンで料理をしている。今日はメインの料理も作ってくれるらしい。兄にそうメールで伝えると、手料理が食べられることに喜んでいた。今までのこの家の夕食は、宅配かスーパーの惣菜が常だったのだ。
「味見はないんですか?」
エプロンを着け、手元のメモとの格闘を終えた楓に、巽が催促をする。
「いやしいですよ、先輩」
彼女がそう言いつつも、鍋の中身を小皿に取り分けてくれる。
「家庭の味というのは、いいものですね」
味見の感想をそう伝えると、彼女が嬉しそうに微笑んだ。
これが、最近のこの部屋での夕方の日常だ。




