その7
楓は本郷のマンションの前に立っていた。天気は曇り空で、湿気を含んだ空気のせいで、楓は幾分汗ばんでいた。
勉強道具の入ったバッグを肩に下げて、深呼吸を数回。一人でマンションのエントランスを通り、本郷に言われた通りの手順で自動ドアの中に入る。そしてエレベーターに乗り、五階の角部屋までやってくる。
正直楓が本郷との距離感がつかめないことは本当だ。けれども昨日、本郷は楓のことを考えてくれた。それを信じてみることにしたのだ。
楓は再び深呼吸をして、呼び鈴を押す。すぐに扉が開いた。
「楓さんの姿が見えてましたよ。いらっしゃい」
微笑む本郷が迎えてくれた。
「お、お邪魔します」
ドキドキしながら楓は部屋に上がる。
「今日も、可愛らしい格好をしてますね」
『胸もムッチリだけど、太股もいいな』
主音声に服装を褒められて、副音声に太股をセクハラされた。楓は頬を赤らめ、脚をモジモジさせた。
楓の今日の服装は、白い五分袖のブラウスに紺色の膝上のキュロットスカートである。以前いつもズボンだという話をしたので、スカートっぽく見える格好にしてみたのだ。これも昨夜に小一時間ほど悩んだ成果だ。
「もしや、これがなにか言いましたか?」
楓の様子で察したらしい本郷が、胸元の鎖を引いて尋ねる。
「えと、あの、褒められました……」
羞恥で体が熱い。そして本郷の視線が太股に行っているようで気になる。
――主音声と副音声は、繋がってるの?
楓がいたたまれない気持ちになっていると、本郷に手を引かれた。
「外は蒸したでしょう。まずは涼んでください」
楓はソファに案内され、本郷に冷たい飲み物を出される。
「ありがとうございます、いただきます」
汗をかいたこともあって、楓はそれを一気に飲み干す。そして周囲をうかがう。
「あの、平井先生は?」
今日は平井先生が、誰かを紹介したいという話だったはずだ。
「今、人を迎えに行っています」
どうやらその人を連れてくる最中らしい。楓がなるほど、と頷いていると、本郷が隣に座った。
「あの、先輩私、汗臭くないですか?」
気にする楓に、本郷はにっこりと笑みを浮かべた。
「楓さんの匂いなら、全く気になりませんよ」
「そう、ですか?」
楓は自分でもすんすん、と匂いを確かめる。しかし自分ではあまりわからない。
そんな楓の様子を、本郷が観察していた。
「先輩?」
やはり汗臭いのか、と楓が思っていると。
「今回よくわかったことがあります。楓さんはたまに思い込みで視野が狭くなるので、物事ははっきりと告げた方がいいということです」
本郷の意見に対して、楓は何も言い返せない。楓の思い込みが強かったばかりに、家族にいらぬ苦労を強いてしまったのだから。
『自分を不幸に思い込むのはやめることだ』
と石神様にすら言われた。
「なので、僕もはっきり言います。遠まわしにでも伝わっていると思っていても、まったく受け止められていなかったらショックですからね」
本郷はなにか、楓に伝えたいことがあるらしい。
「な、なんでしょうか……」
楓はなにか、重大な過ちを本郷に対して犯していただろうか。うろたえる楓の正面に、本郷が正座した。ソファに座る楓が本郷を見下ろす形となる。
「……先輩?」
本郷がなにをしたいのかわからず、楓は首を傾げる。すると、本郷が静かな口調で告げた。
「僕はあの生徒指導室で、兄が来るのが遅かったら、もしかすると楓さんを強姦していたかもしれない男です」
本郷の言葉に、楓は息を飲んだ。
正直楓は今まで、ちょっと障られた程度のセクハラ被害だと思っていた。自分などに手を出す物好きはいない、本郷だって太った身体にすぐに幻滅すると考えたのだ。
しかし昨日、両親からも重々言い聞かせられた。変質者はどこにでもいるので、身の安全には十分に気をつけろ、と。実は近所の人から、楓の跡をつける不審者がいると知らされたことも数回あるらしい。それを伝えても、楓が聞き流して本気にしなかったとも言われた。今まで何事もなかったのは、楓が学校の登下校以外で外出しなかったことも幸いしたのだ。部活動に入っていなかった楓は、日が明るい時間帯にしか出歩かなかった。
――小学五年生で男をエッチな気分にさせるんだから、今はなおさら気をつけろって、お母さんに言われたけど
楓が魅力ある女なのかは、自分では正直わからない。けれども身の危険には気を配ろうと、両親の説得で心を改めた。
それが今、本郷に強姦まで示唆された。
――先輩は、私をずっとそういう目で見てたってこと……?
確かに副音声は楓の胸が好きだ。でも主音声の本郷は紳士である。そしてこの両者は、同じ人間である。
「改めて楓さんに謝罪をしたいのです。女性を力ずくで従わせようなど、野蛮な行いでした」
正座した本郷が頭を下げた。自分が強情だったばっかりに、本郷にまた頭を下げさせてしまった。そのことが、楓にはショックだった。
「僕の謝罪を、受け入れてもらえますか?」
だが「許す」と簡単に言っては、本郷に失礼な気がした。
――先輩は、どういう人だろう
どちらの本郷を信じればいいのか、楓には判断しかねていた。ぐるぐると考えていたことが、楓の口から出る。
「……先輩は私を触ったり、したいですか?」
一体自分はなにを聞いているのだろうか。楓は言ってしまって赤面する。しかし本郷はこの疑問に、真面目に答えた。
「正直に言えば、触りたいし、他にもいろいろしたいですね」
この答えに、楓はぎょっとする。
――真顔ですごいこと言われた……!
楓は思わずソファに両足で乗り上げ、本郷と距離をとろうとする。
「実行に移すには楓さんの許可が必要ですが。したいかと聞かれたので、正直に答えたまでです」
正座のまま、本郷は涼しい顔で言ってのけた。楓は両膝をソファの上にあげて、ぎゅっと抱え持つ。
「先輩、性格変わりませんでしたか?」
「開き直ったと言ってください。どうせ楓さんには、僕の下心が筒抜けなのです。ならば自分から暴露した方が傷は浅いかと」
本郷が正直であることの証明として、副音声が聞こえない。これが、本郷の心のままの声だからだ。だが楓としては、もう少しオブラートに包んで欲しかった。
本郷の言い分は、副音声よりもグレードアップしている気がする。むしろ楓の傷が深くなった。
「謝罪を受け入れてもらえた上で、僕は楓さんに言いたいことがあるのです」
「な、なんでしょう?」
じりじりとお尻を移動させて距離をとる楓に対して、本郷は動かない。
「謝罪を受け入れていただけますか?」
真剣な表情の本郷を見て、楓は下がるのを止めた。
「先輩はもう、セクハラとか、強姦?を、しませんか?」
「ええ、楓さんの意思を無視した行いはしないと誓います。必ず同意を取り付けます」
――同意、同意ってなに!?
本郷の表情を確認するも、いたって真面目であった。
「なら、受け入れます。だから、立ってくれませんか」
いつまでも本郷を正座させていることに、楓は耐えられなくなってきた。
だが、本郷は正座のまま、続けた。
「では、どうか僕と付き合ってください。楓さんが好きなのです」
「……はい?」
楓は目を丸くして硬直した。
正直に言うならば。楓が本郷からの好意を、感じていなかったというのは嘘になる。でもそれは、きっと恩人に対するものだと自分を納得させていた。そしてもしかすると、という妄想したことがないというのも、嘘になるだろう。
「楓さん、答えをいただけますか?」
「い、今でしょうか」
ソファの上で固まったままの楓に、本郷が頷いた。
「できれば。答えられないのなら速やかに神社に送り届けます」
「え、平井先生は?」
「僕から謝っておきますよ」
なんということだろうか、本郷はいたって本気だった。
「先輩は、私なんかがいいんですか?」
小声で楓が言うと、本郷が表情を険しくした。
「楓さん、その言い方は僕も傷つきます。楓さんなんか、ではなくて、楓さんでなくてはダメなのです」
ドクン、と楓の心臓が大きく脈打った。
――今、さっきよりも告白された気がする
「僕に対して、よい印象を持っていないだろうことは、理解しています。それでも、楓さんがいいのです」
なんと強引な論理だろうか。けれどもその本郷の言葉と、視線の熱が、楓にのりうつってくる気がした。
「わ、私が、いいんですか?」
「そうです、楓さんだけが、いいのです」
楓は身体の熱が上がってくるのを感じる。楓は自分の中の、本郷に対する答えを探した。
「私なんか、いえ、私で、よければ。その、お付き合い、します、か?」
気が付けばしどろもどろに、楓は答えていた。その瞬間、本郷がとても嬉しそうに笑みを浮かべた。
「はい、ぜひお願いしたいです」
そう言って本郷は立ち上がると、楓の隣に座った。
「では、今から僕らは恋人同士ですね」
輝かんばかりの笑顔で、本郷が告げた。
「恋人同士……!」
今まで言われたことのない言葉に、楓は動揺する。そんな楓を、本郷がソファの背もたれに両手をついて囲い込む。
「うぇっ!?」
驚く楓に本郷の顔が迫り、距離を縮める。
「……!」
二人の唇が触れ合い、そしてペロリと舐められた。
「恋人ならば、キスは許されるでしょう?」
そう言って、本郷がもう一度唇を触れ合わせる。
急展開に楓の脳がついていけないでいる。本郷がそんな楓を抱きしめた。猛スピードで鼓動を刻む心音が、本郷に伝わるだろう。
その時、ソファの側に人の気配がした。
楓はぼんやりと見上げると。
「巽お前は、どうしていつも楓ちゃんを押し倒しているんだ!」
そこにいたのは平井先生と、新井先生だった。




