その6
楓に涙目で見られて、本郷は眉を寄せた。
「やはり自分が悪いと思っているのですね。まあ当時小学生だった楓さんに、高校生男子の生理事情を察しろというのは無理な話です」
本郷がそんなことを言ってため息をついた。
「……?」
確かに当時、楓は小学五年生の夏休みで、兄は高校生だった。それがなんだと言うのだろう。涙で濡れた目を瞬かせる楓に、本郷が微笑んだ。
「その当時のお兄さんと同じ高校生男子である僕が、僭越ながら、当時のお兄さんの言葉を、通訳して差し上げたいと思いまして」
「通訳?」
「はい、楓さんはいつも、石神様の言葉を通訳してくれます。あれと同じことです」
あれは本郷に聞こえないから、楓が教えてあげるのだ。自分は兄の言葉はちゃんと聞いたし、理解している。本郷がなにをしたいのかわからず、楓が動きを止めていると、本郷が、楓の耳に口元を寄せる。
「小学生の子供のくせに、大人の身体になっているじゃないか。胸も尻も肉付きがよくて、男を興奮させる身体だ。兄である自分を淫らに誘うとは、なんという大人びた小学生だろうか」
本郷が楓の腰のラインを撫でさすりながら、楓の耳に囁くように言う。
「!!!???」
声にならない叫びをあげて、楓は口をパクパクさせる。
――興奮って、淫らって!?
それに本郷の手つきがいやらしい。触れているのは服越しであるのに、あのセクハラ事件の時よりも、先日本郷宅で触られたときよりも、ずっと性的なものを感じさせる。
「先輩、やめてくださ、あの、その、手が」
楓の顔は、今真っ赤になっているに違いない。羞恥と、触れられている場所のむずむずとする感触で、涙はすっかり止まっていた。
「恥ずかしいですか?でもそんな風に楓さんが恥ずかしく思うような感情を、あの時のお兄さんは抱いたというわけです」
そこまで話して、本郷はすっと楓の後ろから退いた。しかし楓は、未だ頭が混乱して動けない。
「そんな、うそです……」
兄は、自分をデブだと馬鹿にしただけだ。楓が頭を横に振ると、楓の正面に座り直した本郷が、優しくその頭を撫でてくれた。
「要は、お兄さんは風呂上りの楓さんのあられもない姿を見て、男として興奮状態になってしまったのでしょう。それをごまかそうとして、なおかつ楓さんに責任転嫁しようとして発した言葉が、『ぶくぶくした身体をして気味が悪い』となったのでしょうね」
語彙力貧困にもほどがありますが、と本郷が解説してくれた。
「お風呂上り……」
楓はその言葉に導かれるように、その時の状況を思い出した。
夏の暑い時期で、お風呂上りにはいつも下着姿で涼んでいた。それを毎回母親に注意されていたけれど、学校で周囲と違うことで気を使う分だけ、家では自由にしたかった。
あの日は、いつも遅く帰ってくる兄が、たまたま早く帰っていたのだ。なので楓の風呂上りの時間とかち合ってしまった。
「そうだ、いつもお母さんにパジャマを着なさい、って怒られて。でも暑くて、下着でうろうろしてたら、いつもはいない兄がいて」
何故か兄が、顔を真っ赤にして立っていたのだ。
楓がぽつぽつと話しだしたのを、本郷は頷きながら聞いていた。
「楓さんは周りの女の子よりも早く、大人の身体になったと聞きました。下着姿の女性を見て、興奮するのは男性の自然現象です。けれど、兄としてそれを諭すでもなく、暴言を吐くのは論外です」
説明に耳を傾けながら、楓は正面の本郷を見た。
「それでも楓さんが悪いと言うならば。それは体型うんぬんではなく、下着姿で無意識にセクハラしていたところでしょうね」
「セクハラ!?」
楓はぎょっとして問い返した。
「ええ、裸同然の格好で異性の前をうろつくことは、家族とはいえ立派なセクハラでしょうね」
小学生時代の長年の習慣だったことを、そのように言われるのは衝撃だ。大人の下着をつけているわけでもなく、いわゆる子供シャツに子供パンツの小学生だったのに。
――あの時の私って、エッチな格好でいたってこと!?
だがそうなると、兄が性的に興奮したという説明にも理由付けがなされる。エッチな格好でうろうろしていた楓が、そもそも悪かったということなのだ。
「幸いなことに、楓さんはそれ以来きちんと服を着るようになったようですね。それが行き過ぎたところもあったとしても、結果オーライでしょう。でなければ、自覚なく薄着でうろついて、変質者の餌食になっていたやもしれません」
なんというか、本郷の言い方だと、当時の楓がものすごくエッチな小学生だったみたいに思える。そんなことはないと言い返したいが、当時母親からいろいろな注意を受けていたことも思い出す。
そんな格好をして、ちゃんと服を着なさい、足を開けて座らないの!母親の言葉が、脳裏に蘇ってくる。
「なにやら、思い当たる節があるようですね」
だんだんと俯いていく楓を、本郷が指摘した。
「なんだか、すみません……」
目からウロコが落ちたのはいいが、あまりの自分のダメっぷりに、楓はまた泣きたくなってきた。
「僕は今日はもう帰りますから。ご両親とよく話をすることです」
本郷が、楓の頭をポンポンと叩いた。
その後、両親と話をした。本郷に高校生男子としての意見を聞かされたことを話した。
「そうか、楓もそれがわかる年頃になったか」
と父親がホッとするのと同時に寂しそうな顔をした。
「お兄さんの暴言は論外だけど、無意識にセクハラしていた私も悪かったんだ、って先輩が……」
「そうね、楓が服装や行動に気を配っていたら、ああはならなかったわ。でも当時小学生ですもの、仕方ないことよ」
しゅんと俯く楓を、母親が励ました。
けれども悪かった順序であれば、兄の暴言よりも楓のセクハラ行為の方が先になるのだ。
――私が悪かったのに、兄を悪者にしてしまった
楓が今まで信じていたことが違った。だがそれを受け止めるのは辛い。楓は石神様に泣きついた。
「石神様、私どうしよう……」
しょんぼりとうなだれる楓に、石神様はこともなく答えた。
『悪かったと思うのであれば、謝ればよかろう』
石神様は簡単に言ってくれる。
「もう、何年も経っているのに?」
とても今更な謝罪ではないだろうか。そんな楓の考えを、石神様が諭す。
『時間が経てども、それで解決せずにいるならば、謝ることも必要だろうに』
悪いことをしたら謝る。確かに基本的なことだ。しかし、まだ気持ちの整理がつかないせいか、その勇気が出ない。
『なに、急ぐこともあるまい。ゆっくり休んで、ゆっくり考えることだの』
「……うん」
その夜、ベッドに寝転んだ楓は、携帯電話にメールがきていることに気付く。
――先輩だ
本郷の名前が見えて、楓は跳ね起きた。
『あれからどうでしたか?もしよければ、今日できなかった勉強会を、明日僕の家でしましょう。丁度、兄が楓さんに紹介したい人がいるそうですから』
落ち込んでいた楓の気持ちが浮上する。明日一日家にいても、きっとろくなことを考えないだろう。
楓はいそいで返信を打つ。
『勉強会、行きます。明日、何時ごろがいいですか?』
――このまま寝ている場合じゃないよ
今から明日の洋服選びをしなければ。楓はクローゼットを漁り出したのだった。




