その5
土曜日。最近雨の天気が続いていたが、本日は快晴である。
巽が弓道場で休憩していると、いつものように夫人がやってきた。お茶の誘いという言い訳を使い、娘の話を聞きにくるのだ。高校に進学した娘がうまくやれているのか、心配でならないらしい。
「なにしろ、中学まで友達付き合いを全くしなかった娘なので」
と夫人は当初、心配な様子を隠さずに言っていた。
今日は巽の方が尋ねてみた。
「あの、楓さんは女性として理想的な体型をしているのに、妙に卑下しているように思えます。なにかそうなるきっかけがあったのですか?」
巽の質問に、夫人は深くため息をついた。
「なにがきっかけかって、うちの馬鹿息子ですよ」
低い声で言うその表情は、苦々しいものだった。
「それも先日楓さんに聞いたのですが、今東京にいらっしゃるとか」
巽に頷いた夫人は、この問題を最初から話してくれた。
「楓は同級生の女の子たちより、成長期が早かったんです。小学校の頃、周りの女の子たちより早く、女の子らしい身体つきになりました。それをよくからかわれたらしいんです」
成長の度合いはそれぞれに違うが、それは一、二年もあれば同じになる。とはいえ、成長が早いと目立つのは確かだ。
「ああ、男子でもありますね。周りが追いつけば鎮静化するのですが、一人だけ先んじたら、辛いでしょうね」
子供は違うことに敏感だ。彼女はさぞ居心地の悪い思いをしていたのだろう。
「そうなんです。そんな敏感な時期の楓に、とどめをさした暴言がありまして」
今思い出しても怒りが込み上げてくるらしい、夫人の声が震えていた。
「それがお兄さんですか?」
「はい、偶然お風呂上りの楓を見た息子が、『ぶくぶくした身体をして気味が悪い』と怒鳴りつけたんです。小学生の女の子に、高校生が言ったんですよ」
巽は思わず空を見上げる。状況は用意に想像がつく。高校生にもなった男が、なんということを言うのだ。
「それは、許せない暴言ですね。小学生ならば、自分が何を言われたのかわからなかったでしょう」
「ええ、おそらく息子は楓を見て、少し動揺したのでしょう。薄着をしていた楓にも問題はあったのですが。それにしても言い方が悪いわ」
巽もそれに同意する。動揺したくらい、部屋に篭って自分でなんとかしろと言いたい。それを小学生の妹にぶつけるとは、その兄の方がよほど幼い。
「気味が悪い身体だということだけが強く楓の残ったらしく。それ以来、楓は身体の線を隠す服しか着なくなりました。夏でも冬の服を着て、熱中症になったこともあるほどです」
「それは大変ですね」
熱中症は処置が遅れれば、死亡だってある病だ。夫人が涼しい格好をするよう彼女を説得しても、頑なに聞かなかったらしい。
「私が食事を抜くのを絶対に許さなかったので、楓にはそれしかできなかったのでしょう。中学に入ると、夏服を着たくないと、登校拒否をしようとしたくらいです。それでも校則ですから、制服だけは諦めたようです」
「筋金入りですね。お兄さんの罪は重いですよ」
巽もその、まだ見ぬ兄に説教をしたくなってきた。まずは一発殴ってやりたい気分もある。このような暴力的感情を抱くのは、初めてのことである。
「ええ、息子もあのことをこじらせたようです。東京に行くまで、友人の家を泊まり歩いて、家に寄り付きませんでした」
夫婦はそれも仕方ないと判断して、無理に兄を家に連れ戻さなかったようだ。結局兄妹は滅多に顔を合わせぬまま、兄が東京に旅立ったらしい。
「楓はちょっと、人と変わったところのある娘です。そのせいで私たち夫婦は、幼い頃の楓との接し方が、わからなかったんです。楓が暴言を信じ込んだのは、そのせいもあったのかもしれなくて」
普段はどちらかといえば陽気な夫人が、暗い表情を見せた。
「昔のことはどうしようもないですが。今の楓さんは、ご両親を慕っているように見受けられますよ?」
本郷が慰めを口にすると、
「わかってます」
と夫人は答えた。親子で分かり合えてはいるようだ。ただちょっとした食い違いが、ずっと尾を引いているのだろう。
「楓さんがやけに自分を軽んじるのは、そういう背景があったのですね」
強姦一歩手前であった自分の現在の態度が、いくら恋心故といっても、図々しいものであることは巽としては十分に承知の上だ。そしてそんな自分を許してしまう彼女の内心を、考えあぐねていたのも確かだった。なんのことはない、彼女は己の身体は見るに耐えないものであると思い込み、こんな女を襲う物好きはいないと判断していたのだろう。だから、危険度の設定が低くなっていたのだ。
「それが、楓が高校生になって。同好会で出かけるからと服を選んでいたんです。いつも着る服じゃなくて、私が買ってやった服を着て。もうその日は主人とお祝いしましたよ」
古墳を見に行った時のことだろう。服装のことで恥ずかしそうにしていた影で、そんなことがあったとは。知っていればもっと、気合を入れて褒め称えたものを。
「普段着も気を使うようになって。やっと女の子らしい生活を始めたんです。できればこのまま、何事もなく育って欲しいわ」
「同好会の他のメンバーも、気のいい人たちです。楓さんに害になるような行動は、しないと思いますよ」
むしろ、最も危ういのは巽自身であろう。だがそれは言わないでおく。あの事件の直後、橋本莉奈から痛い制裁を加えられたが、それもあえて受け入れた。あれはきっと、巽に必要な痛みだったのだと思う。むしろ橋本莉奈には、嫌な役目をさせてしまった。
「僕の兄は、僕らの通う高校で教師をしているのですが。楓さんはグラマーだし、男性の視線を集める人です。自覚がないことが危ないのでは、と心配しています」
巽の兄が指摘した問題も伝えてみる。夫人は、再びため息をついた。
「そうなんです。今のご時勢いろいろ物騒でしょう?だから私も注意するんですが、楓は自分なんかを襲う物好きはいないと笑うんです」
「やはり、そうですか」
巽はあごに手をあてて考えた。
***
楓がお守り売り場に座っていると、いつものように本郷がやって来る。
「楓さん、今日は暑くなりそうですから、水分補給は大切ですよ」
母親に持たされたらしい、冷たいジュースを持ってきてくれる。
「先輩、いつもすみません」
「いえ、僕の休憩のついでです」
本郷がいつも勉強に使う隣の部屋に、ジュースを置いて手招きする。
「そちらは暑いですから、こちらでどうぞ」
楓は素直に立ち上がり、部屋にある小さなテーブルで、本郷と向かい合わせに座る。
今日は確かに暑いので、楓としても冷たいジュースは嬉しい。楓が休息に癒されていると。
「可愛い巫女さんがここに座るようになって、きっと土曜日の参拝客が増えたでしょうね」
冷たいジュースを飲みながら、本郷がそんなことを言ってくるので、楓は少しムッとした。
「先輩、そういうお世辞はもういいです」
最近、よく本郷は楓にお世辞を言う。楓のスタイルがいいとか、見目も悪い部類じゃないなど、本郷がどうしてそんな嘘を並べ立てるのか、楓にはわからない。楓が強く否定しないから、喜んでいると思われているのかもしれない。そう考えてきっぱりと否定しても、本郷は困ったように微笑むだけだ。
月曜日に本郷に脅かされて以来、楓はなんとなく本郷との距離感がつかめていなかった。出会いの直後に事件があったが、それ以降は親切な、ちょっとドキドキする先輩だったのだ。それが、あれから本郷が男であることを、嫌でも意識してしまう。しかも、楓なんかに興味を示す男だ。なんて物好きなんだろうか。
それにあれから、楓に身の回りの危険について説いてくる。そんなことは、もっと必要な女子にすればいいのに。
「やはり、強情ですねぇ」
今も本郷は苦笑するばかりだ。
だが本郷は、席を立つと楓の背後に周り、座り込んだ。
「……?」
不思議に思う楓をよそに、本郷が楓に腕を伸ばし、両腕で軽く抱きしめた。
「せ、せ、先輩?どうしたんですか?」
今なにが起こっているのか考えようにも、楓の頭が思考を拒否している。
「お気になさらず、ちょっとした雰囲気作りですから」
本郷の説明で、気にならないはずはない。
――雰囲気作りってなに!?
楓が腕の中でじたばた暴れるようにすると、本郷の腕に力が篭った。鍛えているという話は本当だったようで、楓はそれをこんな形で実感したくなかった。
慌てる楓に対して、本郷が冷静に話を始める。
「先ほど楓さんのお母様から、お兄さんの話をうかがってきました」
本郷の台詞に、楓は固まった。
「風呂上りの楓さんに向かって、お兄さんが暴言を吐いたとか」
「……」
声が出ない楓に、本郷が続ける。
「ぶくぶくした身体をして気味が悪い、でしたか? そしてそれを真に受けた楓さんが、トラウマになってしまったと嘆いていましたよ」
話を聞くうちに、楓の身体が震える。
――ひといよお母さん、どうしてそんなことを先輩に教えるの
自分がみっともない身体だということを、兄に指摘されてショックだった。他の女の子と違うな、と感じていたのが、事実を突きつけられたのだ。
「ひどい、そんなこと、わざわざ確かめなくても……」
兄にすら悪し様に言われた自分を、他の誰にも知られたくないのに。楓は涙が滲む目で、本郷を見た。




