その3
入学式の後数日は、新入生のレクレーションが続く。本日の午前中は、学校生活を送る上での注意などが説明されている。体育館に集められた新入生の前、壇上で説明しているのは風紀委員長である本郷である。フルネームを本郷巽というらしい。
――あの人、風紀委員長だったんだ
二年生なのに委員長になるとは、すごいことではないだろうか。そんな風に楓がボーっと壇上を見上げている周囲では、女子生徒がひそひそと会話している。
「あの人、カッコいいよねぇ」
「わたし先輩から聞いたんだけど、東京の大きな会社の社長の息子らしいよ」
「えーっ、そんなすごい人が、なんでこんな田舎にいるんだろうね」
聞くつもりはないが聞こえてくる会話に、楓も内心で同意する。
楓の住んでいるところは、はっきり言って都会ではない。かと言って山間の農村というわけでもない。買い物や生活には困らないが、物足りなくもある、中途半端な都市である。そんなところにある高校に、東京の大手会社の社長子息が通っているとは、非常に違和感がある。
けれども、他人のプライベートを探ってどうなるものでもない。むしろ探られて困るのは楓も同様だ。石の声が聞こえる女なんて、知られてはどうなるかわからない。
声だけ聞くなら、バリトンの耳障りのよい声だ。楓は音楽鑑賞のように、本郷の注意事項を聞いていた。
午後になれば、初めての授業である。午後の一つ目は、偶然にも昨日会った女教師の授業であった。彼女が黒板に名前を書いて自己紹介をした。新井先生という、古典の先生である。
「みなさん、よろしくね」
にっこり笑った新井先生に、楓は違和感を覚えた。
――なんだか、疲れてない?
よく見ると、目の下に隈ができている。昨日はそんな様子ではなかったのに。楓はそんな風に首を傾げたものの、考え過ぎだと思い直す。昨日の夜に夜更かしをする事情があったのかもしれない。自分は石神様の言葉を気にし過ぎているのだ。それに、新井先生は昨日のブローチをつけてはいない。
授業の間、楓は自分にそう言い聞かせてみたものの、やはりどうしても気になってしまった。
放課後、楓は教科書を手に職員室前に立っていた。
やはり、気になってしまうものは仕方がない。楓はこのまま家に帰っても、きっと新井先生を心配してしまうだろう。それならば、新井先生に直に話を聞いてしまおうと考えた。その理由付けもちゃんとある。生徒が授業のことで質問をする、これになんの不思議もないだろう。
楓はそう自分を鼓舞してみたものの、いざ職員室に入ろうとすると、足がすくんでしまうのだ。職員室のドアの前に立っている楓を見て、通りかかる生徒が不審そうな目を向けていた。楓の中の勇気がだんだんしぼんできて、やっぱり帰ろうか、と思い直していると。
「どうしました?」
背後から声をかけられた。楓は驚いて、ビクッと肩が上がる。
「驚かせましたか、申し訳ない」
振り返ると、そこには本郷がいた。関わらないようにしようと思っているのに、どうして自分は彼と遭遇してしまうのだろうか。
「それで、どうしました……ああ、質問ですか」
教科書を握り締めている楓を見て、本郷は悟ったようである。
「そう、なん、です」
楓は妙に緊張してしまい、途切れ途切れに答える。
「僕も丁度新井先生に用事があるところです。どうぞ」
本郷が用事があるならば遠慮したい。楓がそう申し出ようとしたところ、エスコートされるように背中を押された。すると自然、楓は職員室に立ち入ってしまった。
「新井先生、質問だそうですよ」
なおかつ声までかけられては、楓としてはもう逃げられなかった。
「まあ、あなたは昨日の生徒さんね。熱心で嬉しいわ」
ふわりと笑った新井先生は、やはり少々疲れて見えた。
「えと、ここの訳が、どうしてこうなるのかわからなくて」
楓があらかじめ考えておいた質問をすると、新井先生は丁寧に答えてくれた。それを、本郷が背後で静かに聞いている。
「わかりました、ありがとうございます……先生、お疲れですか?」
お礼の言葉に続けて、楓は極力さり気ない風を装って、新井先生に尋ねた。
「そういうわけじゃないのよ。ちょっとね、夢見が悪かったというかね……」
よく眠れなかったのだ、という新井先生。
「そういえば、昨日のブローチ可愛かったですね。どこに売ってあるんですか?」
楓の突然の話題転換に、新井先生は驚いたようだが、笑顔で答えてくれた。
「あれ?アンティークショップで見つけたの。私、アンティーク物が大好きなのよ。だから同じものはないと思うわ」
「そうなんですか。他にも、いろいろ持っているんですか?」
「そうよ、趣味でいろいろ集めているから」
「へー……」
楓はアンティークという言葉に、不安を煽られた。石を使った雑貨などであれば、当然古い念がこもっている可能性があるだろう。
「アンティークに興味があるのですか?」
背後から本郷に尋ねられ、そういえば彼も新井先生に用事があったのだと思い出した。
「いえ、そういうわけでは。お邪魔をしました」
楓は頭を下げて、そそくさと職員室を後にする。
それから教室にカバンを取りに戻り、昇降口から出て帰宅する道すがら、楓は新井先生のことを考えていた。
新井先生はアンティークの物を集めるのが趣味らしい。昨日のブローチだけではなくて、集めた物の中に、何かよくないものがあるのかもしれない。たとえば、石の置物とか。
しかし、それが推測できたからといって、楓に何ができるというのだろう。入学したばかりの新入生が、先生の家を知っているわけでなし。調べたとして、どういう理由で訪問するのだ。「怪しい石がありませんか」と正直に言うのか。無理だろう、相手にされないに決まっている。
楓が考え事をブツブツと呟きながら歩いていると。
「また下を向いて歩いてますね。危ないですよ」
もう聞き覚えてしまった声と共に、頭に軽い衝撃があった。楓が顔を上げると、目の前に片手にカバンをさげ、もう片手にファイルを持った本郷がいた。
「……本郷、先輩」
どうして彼がここにいるのだろうか。
「奇遇ですね、僕も今帰るところなのです」
本郷が言うには、どうやらここで会ったのは偶然らしい。
「そう、ですね」
他になにも言えない楓は、頭を下げてそそくさと帰ろうとすると、何故か彼は楓に並んで歩き出す。
楓は新井先生への質問で時間をとったので、周囲に帰宅する生徒の姿はない。部活動に勤しむ生徒たちの声が聞こえてくるくらいだ。要するに、ただいま楓は本郷と二人きりなのである。楓の心境としては、猛ダッシュで走って逃げてしまいたい。
そのような楓の内心など、本郷が知る由もなく。
「二年生は新井先生の担当ではないのです。先生は具合が悪そうだったのですか?」
彼がそんなことを尋ねてきた。
「えっと、その、顔色が悪そうだな、と感じただけです」
楓としては「気になる」が「心配である」に進んでしまった気持ちをなんとかしたい。そのためには、新井先生の家に一度行ってみればいい。けれど、楓にはその理由がない。そういえば、昨日の様子からして、本郷は新井先生と役職上の付き合いがあるようであった。ならば――
「先輩は、新井先生の自宅に伺う用事はありませんか?」
「はい?」
考えていることが、するっと楓の口から出てしまった。
――どうしたの!?なに言ってんの私!?
楓はすぐに後悔するが、言ってしまった言葉は取り消せない。アワアワしている楓を見る本郷の視線が、とてつもなく痛い。
「……いえ、なんでもないです。さようなら」
もう逃げてしまおうとした楓の腕を、本郷が掴んだ。彼のカバンが、地面に落ちる。
「新井先生のお宅に伺う用事ならあります。あの後調子が悪いとかで、すぐに新井先生は帰られたのですが、持って帰るはずのファイルを忘れているのです」
本郷は、片手に持つファイルをひらひらと振った。
「明日ではまずいようなので、僕の帰り道ですし、メールで連絡して、ポストに入れておこうかと思っていました」
楓は、黙って本郷の説明を聞いていた。
「さすがに僕一人ではお宅に伺うことはできませんが、君が一緒ならば問題ないかと考えます」
どういうことだろうか。何故だか、楓の都合がいいように物事が進んでいる。
「で、どうしますか?」
『うひょう、ムッチリちゃんとデートじゃんか!』
――デート!?ってムッチリちゃんてなに!?
本郷の言葉に重なって聞こえる声に、楓は身を引こうとしたが、腕を掴まれたままで出来なかった。
「行きますか?」
「いき、ます、はい」
楓は喘ぐように答えた。これ以外に、どう答えろというのか。
しかしこれはチャンスだ。せめて、あのブローチだけでもなんとかしたい。