その2
楓は学校が終わると本郷宅まで向かった。今日の天気は雨こそ降っていないものの、どんよりとした雲が空に広がり、重苦しい雰囲気をかもしだしている。
梅雨の訪れと同じくしてやってくるのが、衣替えである。楓の学校も今週から夏服に代わる。まさしく月曜日である今日が、夏服初日なのだ。夏の制服は白の半袖ブラウスに紺のスカート、そして紺のネクタイというスタイルである。
――どうしてせめて、ブラウスの袖が五分袖くらいじゃないんだろう
そうであれば、二の腕を気にすることが減るというのに。半袖というのは、つくづく楓に優しくできていない。ついつい、ため息も増えるというものだ。今から本郷に会うのかと思うと、楓は憂鬱になってくる。
本郷は本日委員会などがないらしく、先に帰宅している。楓はそれから時間をずらして、本郷宅に向かうのだ。二人で一緒に帰らないのは、ある種の自衛のためである。今は生徒の帰宅時間である。誰かに一緒に歩く姿を見られると、なんと噂をされるのかわからない。
楓は以前訪れたマンション付近に到着すると、そこで本郷に到着を知らせるメールを送る。ちなみにメールアドレスは、以前写真を撮ってもらった折に交換済である。
本郷は玄関ホールで待っていた。
「楓さん、わざわざすみませんね」
「いえ……」
本郷と一緒にマンションに入ると、楓はなにやらドキドキしてきた。
「私、マンションに入るのは、初めてです」
親類はみんな戸建ての家に住んでおり、今までマンションを訪れる機会がなかったのだ。
「おや、そうなのですか」
そんなことを言いながら、本郷とエレベーターに乗る。五階に本郷が住む部屋があるらしい。
こうして連れられてきたのは、五階の角部屋だった。そこで楓は玄関横の表札が、本郷ではなく平井であることに気が付いた。だが身内を頼ってきたと言う話だったので、そちらの名前なのだろう。
「……お邪魔します」
「どうぞ、男所帯でむさくるしいかもしれませんが」
本郷に招き入れられた部屋は、モダンな家具が配置されている、モデルルームのような部屋だった。
「なんか、すごいですね」
圧倒されている楓に、本郷が苦笑する。
「家具などは全て業者に任せましたから。生活感がないと思われるでしょうね」
本郷から詳しい話を聞けば、このマンションは「せめて安心できる住まいを」と考えた本郷の父親が用意したものらしい。なので身内の人にも、一緒に引っ越してもらったのだそうだ。
「いいお父さんですね」
離れて住む息子を心配するなんて、親子愛である
「いろいろ心配をかけていますからね」
楓の感想を、本郷も否定しなかった。
本郷に座るようにうながされ、楓はソファに腰を下ろす。本郷は冷蔵庫からペットボトルのお茶を出して、コップと一緒に持ってきた。
「こんなもので申し訳ないですが」
本郷がコップにお茶を注いで、楓に渡してくれる。
「十分です、いただきます」
楓がコップに口をつけると、本郷が隣に座った。夏服という心もとない服装であるということもあり、楓はもぞもぞと身じろぎして、出来る限り本郷から離れる。
「どうかしましたか?」
楓の様子に気付いた本郷が、そう尋ねてきた。
「いえ、なんていうか、夏服なのが恥ずかしいというか」
本郷も同じように夏服であるのに、あちらは清潔感に溢れている。自分との、この違いはなんなのだろうか。楓がますます落ち込んでいると。
「女子の夏服というものは、男子にとっては心躍るものなのですがね」
真面目な本郷にしては、いささか軽い発言をした。だが楓の心はちっとも軽くならない。
「痩せている人はいいでしょうけど。私みたいなデブは、ちょっと嫌だな、と思うというか……」
本郷相手になにをいっているのだろう、と内心で楓は思うものの、口は止まってくれなかった。
「夏服前に、もうちょっとダイエットしたかったです」
『もったいない、せっかくムッチリちゃんなのに!』
楓の愚痴に、副音声が反応した。そういえば生徒指導室でセクハラされたときも、この話題だったことを思い返す。
――え、ひょっとしてダメな話題だった?
楓は本郷の様子を警戒する。
「以前から思っていましたが、楓さんは太っているということはありませんよ?」
しかし、本郷はいたって普通である。眉を寄せて楓を見つめる。あの頃よりも状態がよくなっている、という本人の話はどうやら本当だったらしい。
しかし見え透いたお世辞は、こちらが傷つくだけだ。
「そういうお世辞は、いらないです」
楓がムッとしても、本郷も引かない。
「妙に頑なですね。確かに女子の間では、ダイエットが流行っていることは知っていますが。楓さんは女性が憧れる部類のプロポーションだと思いますがね」
本郷はなにやら真面目に解説してきた。
「そもそも女性の形容詞が痩せているか太っているの二つしかないという、今の風潮も問題です。男性は意外と、ふっくらとしている女性を好むものですよ。そして楓さんの形容詞は太っているではなく、グラマーですね」
「グラマー、ですか?」
グラマーというと、出るところは出て、締まるところは締まるという、いわゆるポンキュッポンな人のことだ。自分がそれに当てはまるとは、楓にはとうてい思えない。
「そもそも、誰かに太っていると言われたのですか?」
本郷にずばりと聞かれて、楓は一瞬言いよどむ。しかし本郷が視線を逸らさないので、楓は逃げることができない。
「……兄に」
仕方なく楓が答えると、本郷が驚いていた。
「楓さん、お兄さんがいたのですね。見かけたことがありませんが」
「はい、兄は五才上で、今は東京にある大学に通っています。なので家にいません」
兄は楓が中学の頃に東京へ行った。口癖は「こんな田舎はいやだ」だった人である。引っ込み思案な楓に対して、兄は派手な性格であったので、基本的にそりが合わない人であった。
あまり兄のことを話したくない、という楓の様子を察したのだろう。本郷は兄についてはそれ以上聞いてこなかった。
「とにかく、楓さんにダイエットなどと言われると悲しいです。せっかく好みのやわらかさなのに」
俯いている楓の腕を、本郷がつかんだ。
「……え?」
楓は驚いて顔を上げる。
「上着がないので、身体の線がちらりと見えるあたりが、心惹かれます」
主音声の本郷らしからぬことを言った。
――先輩、ちゃんと主音声入ってる?副音声じゃない?
本郷の不穏な空気に、楓は警戒する。
「楓さん、ちょうどいいから、聞きたいことがあるんです」
本郷がつかんだままの楓の腕をぐっと引っ張る。本郷の方に倒れこまないように、楓は引っ張り返す。
「今、ちゃんと先輩ですか?副音声じゃない?」
不安のため思わず口にした楓に、本郷が微笑む。
「楓さん、その副音声ってなんでしょう?」
――え、その話?
今楓が最も触れて欲しくない話題である。楓が必死に考えているうちに、本郷の顔が近付く。
「教えてください楓さん、副音声って?」
本郷に耳元で囁かれた。楓は逃げようとして体勢を崩し、ソファの上に仰向けになる。
「楓さん、いい子ですから教えてくれますか?」
本郷が楓の顔の横に腕をついた。そして眼鏡をとって楓に顔を寄せてくる。
「えと、その」
「悲しいですね、楓さんに内緒ごとをされるなんて」
楓の胸に何かが当たる。恐る恐る下に視線をやると、本郷の自由な方の手が、楓の胸元を撫でていた。それを認識した瞬間、楓の背筋に痺れのようなものが走る。
「楓さん?」
堪えきれない楓は、口をパクパクさせた後、
「ふぃ、せんぱい、えっと、ごめんなさいうそでしたぁーー!!」
号泣して謝った。
その瞬間。
「巽、また俺に殴られたいのか?」
本郷の上から、低い男性の声が聞こえてきた。




