その2
楓は長い階段を上る。
楓の自宅である石守神社は、崖の上に建てられている。大昔はこの崖の下まで海だったという話だ。だが今は埋め立てられて、ぎっしりと住宅が建っている。それでも、神社が崖の上であるという事実は変わりない。歩いて帰るならば長い階段を上り、自転車であるなら迂回する坂道を押して上らなければならない。すっかり慣れたとはいえ、精神的に疲れた身には辛いものがあった。
――絶対、足が太いのはこのせいだ
うらめしく思ったところで、階段が平らになるわけでもない。楓は黙々と階段を上っていく。
ようやく坂道が終わると、目の前に神社が見えてきた。広い敷地ではないが、朱塗りの柱に白い壁がキレイなことが、楓のひそかな自慢だ。いろいろな種類の桜が植えてあり、丁度今の季節には満開の桜が美しい。高台であるため、気持ちのいい風が吹いてくる。
「はぁー、なんだか疲れた」
楓が家へ入ろうとすると。
『楓よ、こちらに来い』
声が聞こえてきた。
――疲れてるのに
楓は肩を落とす。しかし呼ばれたならば行かなくては、行くまで声が聞こえる。これは過去に実証済みである。楓はあきらめて境内の奥の神殿に向かう。
境内の中は、石の声が聞こえない。これは、石神様のおかげであるらしい。しかし、石の声が聞こえる体質もまた、石神様のせいである。感謝するべきか、非難するべきか、楓としては迷うところだ。
「なにか用事ですかね、石神様」
楓が神殿の扉を開けると、そこには巨岩があった。しかしごつごつしたものではなく、表面は黒く艶やかだ。夏に触れると、ひんやりして気持ちよかったりする。
『楓よ、妙な念をつけておるな』
楓に声が語りかける。この声の主は目の前の巨岩、石守神社の御祭神の石神様である。
「そうかもね、朝から変な声聞かされたし」
楓は石神様の前に座り込んだ。
『変な声、とはどういうものか』
石神様の問いかけに、楓は言葉をつまらせた。今思い出しても嫌な気分になる。楓のコンプレックスを刺激する言葉だ。
「……む、胸がでかいとか、いいカラダしているとか」
『それは、褒め言葉ではないのか?」
「違うよっ!……どうせ、デブだって言われてるんだ」
楓は俯いた。
『お主のそれは病気よの』
石神様が呆れたように言う。
楓は、自分をよく知っているつもりだ。雑誌で見るような、スラッとした体型のお姉さんたちとは、かけ離れた存在である自分を。それを、石にまで指摘されるなんて。
ここで、楓はあの奇妙な声のことを聞いてみることにした。
「ねえ石神様、同じことを繰り返すばかりの声じゃない声って、なにか違うの?」
石が発する声とは、レコーダーの録音みたいなものだと楓は考えていた。ただ同じ言葉を繰り返すばかり。一度の声で沈黙する石があれば、百回繰り返して沈黙する石もある。何度繰り返しても沈黙しない石もある。それは、石が吸収した人の念の強さだと、石神様は言った。
でも、本郷といるときに聞こえたあの石の声は、少し違った。楓の説明に、石神様が少々考えるように間をおいた。
『同じ人物の念を長い間吸収し、人格を写しとったのやもしれぬ。稀に、そういうこともある』
人格を写しとる。声は確かに本郷と似ていたが、人格は全く違ったように思える。本郷はとても真面目で怖い印象だが、あの声は、なんというか、口が悪い。
『その声だけか?』
石神様の声に、楓は考えるのをやめた。
「あ、あとシネって言う声を聞いた」
楓はあの女教師のブローチを思い出した。
『それかの。よくない念がまとわりついておる。どれ、わしが喰うてやろう』
石神様は神様だが、好物がある。それは、人の念だ。念によって、いろいろな味がするらしい。
『ふむ、少々苦味が残る味だの。どこでつけたか知らぬが、もう近寄らぬがよいぞ』
「……よくない念なの?」
楓は、眉根を寄せる。あの人は優しそうな、普通の先生に見えた。
『長く接しておると、影響を受けるかも知れぬな』
「ふぅん……」
少々心配になる。しかしあれは今日が入学式だからつけていたのだろう。明日からつけなければ、問題ないかもしれない。それに、心配だからどうするのだ。あの女教師に、
「あなたのブローチが変なことを言っています」
とでも告げるのか。頭がおかしいと思われるに決まっている。
――忘れよう。私は声が聞こえるだけで、特別な人間なんかじゃない
そう考えようとするものの、楓の心は晴れなかった。
翌日、学校の校門には本郷がいた。本郷だけではない、数人の生徒がいる。彼らは皆、風紀委員なのだろうか。新入生が入ったばかりなので、服装チェックの強化をしているのかもしれない。なんにせよ、朝早くからご苦労なことである。
昨日同様にヘッドフォンをして、俯きがちに歩く楓は気付いていないが、周囲の女子生徒が本郷を見てざわめいていた。本郷は一言で表すならば、美形な男子である。女子生徒が騒ぐのも無理はないというものだ。その女子生徒注目の的である本郷が、昨日同様に楓に声をかけた。
「君、ちょっと」
昨日ほど注意散漫ではなかった楓は、すぐに声に気がついた。そして昨日された注意を思い出す。
「これですね。ちゃんと外します」
楓はあわててヘッドフォンを外してカバンに仕舞う。
その楓の様子を見て、本郷が目を細めた。
「そのヘッドフォンは、なにかこだわりがあるのですか?小さなものであれば、ポケットに仕舞えるでしょうに」
「……こだわりのようなものです」
楓にとっては機能でも便利さでもなく、この形が重要なのだ。
「そうですか。あと、前を見ていないと危ないですよ」
『今日もイイ乳してんなぁ』
また声が聞こえた。本郷の声に被せるような声に、楓は思わず自分の胸元を見た。
――人格を写すって、この人は胸が気になるってこと?
本郷が石を肌身離さず身に付けているのかは知らないが、石神様の言う通りであれば、この二度も胸について言及してきた声は、本郷の人格を写したものだという。テレビで言うところの副音声みたいなものだろうか。
楓がそっと視線を上げると、本郷の視線とぶつかった。もしかして、また注意を無視した失礼な奴と思われたのだろうか。
「……気をつけます。お疲れ様です」
楓は軽く頭を下げて、校門をくぐる。
校舎に入った楓は、教室の自分の席に座った。あいうえお順で席を決められたので、楓は端の前から二番目だ。
「ねえ」
楓は座ってすぐに、女子生徒に声をかけられた。彼女を見上げて観察するが、同じクラスの名前も知らないクラスメイトである。
「あなたさっき校門で、本郷先輩に声をかけられていたでしょう」
彼女の言う通りであるので、楓は頷いた。
「知り合いなの?」
「……違うけど、どうして?」
昨日二度ほど短い会話をしただけの関係を、知り合いとは呼ばないだろう。
「知り合いだったら、紹介してもらおうと思って。なんだ、違うのか」
「えと、注意をされただけだよ」
楓の答えに、彼女はもうこちらに興味を失くしたらしかった。なにも言わずに、窓際で集まる女子グループに入っていった。
――あの本郷って人、カッコいいもんね
もう関わらないようにしよう。でないと、きっといいことなどない。楓もこんなことで、女子生徒の嫉妬を買いたくはない。