その4
昨日の本郷セクハラ事件から一夜明け、本日は土曜日である。
高校生になって初の週末は、楓は家に引きこもって過ごすことにした。もともとアウトドア派な人間ではない楓である、引きこもることは苦ではない。二日ほどのんびり過ごせば、月曜日には普通の顔をして学校へ行けるようになる、かもしれない。なにせ昨日の今日である。楓は精神的ショックから、全く立ち直れていなかった。
楓は朝寝坊をして朝昼兼ねた食事をした後、リビングのソファに座って、テレビのバラエティ番組を見ていた。玄関チャイムが鳴っても、楓は特に気にすることなくテレビから目を離さない。
「楓、ちょっと」
「なに?お母さん」
リビングに入ってきて楓に声をかける母親に、振り返らずに尋ねる。
「あなたにお客さんよ、ほら」
「……お邪魔しております」
ここ数日で聞き覚えてしまったバリトンの声に、楓はソファから立ち上がろうとしたが、ソファの前にあるローテーブルに足のすねをぶつけて、またソファに逆戻りした。
「……!!」
「だ、大丈夫ですか?」
声にならない悲鳴を上げる楓を、心配するような声の主――本郷が近寄ろうとして、思いとどまるようにその場で待機する。
「なにしているの、ドジねぇ」
母親があきれたように笑っている。
――お母さんひどい!
もっと心配してくれてもいいじゃないか。それ以前に、どうして本郷を家に上げたのだ。セクハラ犯であるのに。
――まあ、セクハラのことは言ってないんだけど
言って騒がれることの方を煩わしく思った楓は、両親には昨日のことをなにも言っていないのだ。それで楓の心境を察しろ、というのは無理があると、自分でもわかっている。
「すみません。玄関で待つと言ったのですが」
本郷が申し訳なさそうにしている。
「……いえ、場所を移動しましょう」
ようやくすねの痛みが引いてきた楓は、ソファから立ち上がる。
「ええ?今からお茶を入れようと思ったのに」
移動しようとする楓に、母親は不満そうな様子である。本郷は美形である。母親はその整った顔を間近で観賞したいのかもしれない。
「後ででいいから」
そんなミーハーな母親を無視して、楓は本郷腕を掴んで、引っ張って行く。
そのまま楓は無言で玄関から外に出て、本郷を連れて行ったのは神殿である。そこでようやく立ち止まった楓に、本郷は戸惑うように視線を彷徨わせる。
「よかったのですか?その、二人になって」
「あそこで話をするわけにはいきませんから」
本郷の言わんとすることは理解できる。しかし両親にセクハラ事件を話していない以上、あそこで話をするわけにはいかないのだ。それにここは石神様のテリトリーである。あの副音声も、めったなことはできないと思っての行動である。
楓はあらためて本郷を観察する。休日であるため、本郷は私服姿だ。薄いグレーのシャツにブルージーンズという簡素な格好であるにも関わらず、なにやら読者モデルのような雰囲気がある。
『楓よ、そやつが昨日申しておった男かの』
神殿の中から、石神様が声をかけてきた。だが本郷の前で、石神様と会話することは避けたい。
「どうぞ、中へ」
答える代わりに、本郷を神殿の中へと促す。彼は数秒躊躇したものの、楓が扉を開けたまま待っていると、諦めて入ってきた。念のため逃げ易いように、扉は開けたままにしておくが。
楓が石神様の前に座ると、本郷は楓の正面に正座した.
『なるほど。きれいに正邪に分かれておる。きれいであり、歪だの』
石神様が、楓にはよくわからない感想を言った。
「まずは謝罪させてください。昨日はほんとうに済まないことをしました」
本郷はそう言うと、床に額がつくくらいに深々と頭を下げた。数秒そうした後、頭を上げた本郷は憔悴した表情を見せた。ひょっとしたら寝ていないのかもしれない。だがそれを言うならば、楓だってよく眠れていない。あんなことがあった夜に熟睡するなど、それほど神経が図太くない。
「しかし実は、僕は昨日のことを途中から憶えていないのです」
心底申し訳ない様子の本郷だが、これは楓は半ば予想していたことだった。
「先輩は、どこまで憶えていますか?」
「確か、石守さんがダイエットをしている、というあたりまではなんとなく」
楓の記憶でも、確かにそのあたりから副音声が混じりだしたのだ。だが楓としては、できればそのダイエットのくだりも記憶から消えていて欲しかった。
『楓よ、例の石が見たい』
背後の石神様からのリクエストが出た。
「突然ですが先輩、ネックレスにしている石を持ってますよね」
楓の言葉に、本郷は胸元に片手を当てた。
「外さなくて結構ですので、それを出して見せてくれませんか?」
楓自身、奇妙なお願いをしている自覚はある。しかし本郷は素直にネックレスを出してくれた。自分は加害者である負い目があるからかもしれない。
ネックレスについている黒い石からは、副音声は聞こえない。石神様の前だからかもしれない。
『霊石だの』
「霊石?」
石神様の言葉に、楓は思わず声に出して問い返した。
「これが、どうかしましたか?」
若干居心地悪そうにする本郷が、楓に尋ねる。石神様の声が聞こえない本郷には、楓が謎の反応をしたように見えたのだろう。
『かなり強い力を宿した霊石である。これならば、人格を写し取るのも頷けるの。これを、こやつはどこで手に入れたのだ?』
「えっと、その石はどこで手に入れたんですか?」
楓が石神様の疑問を通訳をする。本郷は素直に答えてくれた。
「これは僕が小学生の頃、同級生の友人がくれたものです」
子供の頃の思い出の品であるらしい。それを肌身離さず持っているとは、とても大切な友人だったのかもしれない。楓がそんな想像に浸っていると。
『この霊石、もう余力がないの』
「え?」
石神様の言葉に、楓は思わず問い返した。
『現代風に言いかえるならば、容量オーバーだの。念が溢れておるわ』
「そうなの?ひょっとして副音声が出てきたのは、それが原因とか?」
『ありえる話だの』
楓は本郷の胸元の黒い石を、まじまじと見る。本郷が豹変した理由は、やはりこれにあったようである。
『とくにその男は年頃であろう。さまざまに思い悩む時期。霊石といえどそのような小さなナリでは、思春期の邪心を吸いきれまい』
「言われてみればそうかもね」
霊石の大きさは、親指の爪先くらいである。いつも楓が聞いている石の声であれば、数回言葉を繰り返して消える程度の大きさだ。楓の今までの経験上、小さな石ほど強い念は宿らないのだ。
『このままでは霊石が割れるやもしれぬ。どれ、少々喰うておこうかの』
石神様が、黒い石の念を少し食べたようだ。全部食べないのは、昨日言っていた「人として在れぬ」ということが関係しているのだろう。
楓が石神様の話を頭の中で整理していると、本郷がなんともいえない表情で聞いてきた。
「あの……石守さん。一体誰と話をしているのですか?」
「あ……」
――しまった、普通に石神様と話してしまった




