その1
石守楓は、耳に大きなヘッドフォンを付け、俯きがちな姿勢で歩いていた。
楓が身につけているのは、真新しくも野暮ったい、紺色のブレザーの制服である。肩を越す長さの髪を、耳元で二つ結びにしている髪形と相まって、余計に野暮ったく見える。
周囲には同じ制服を着た生徒らが歩いていて、彼らはみんな表情が明るくもあり、緊張している様子でもある。無理もない、今日は特別な日。高校の入学式の日である。
だというのに楓は一人下を向いて、しかめっ面をして歩いている。
――ああ、うるさい
『バカ』『キモイ』『バーカ』『キャハハ』『『『ケラケラケラ……』』』
――お願いだから、静かにして
楓は、ずっと聞こえてくるささやきに向かって、怒鳴り散らしたい衝動に駆られていた。そして、それをしてしまっては、己が不審者になることも、同時によくわかっていた。何故なら、そのささやきは自分にしか聞こえていないから。
楓がずっとそうやって俯いていると。
「君、ちょっと」
突然誰かに腕をつかまれた。
驚いて顔を上げた楓の目の前に、恐ろしく整った顔をした男がいた。艶やかな髪は清潔な型に切り揃えられ、眼鏡をかけた目元はとても涼やかだが、硬い表情が冷たく感じさせる。楓の心境を付け加えるならば、近寄りがたい印象である。
「……え、と」
いきなりのことで声が出ず、楓は口をパクパクさせる。
楓は下ばかりを見て歩いていたので気付いていなかったが、いつのまにが学校の校門に到着していたのだ。
「校門を入る前に、これを取りなさい」
トントン、と彼にヘッドフォンを指先で軽く叩かれ、楓はビクリ、と身体をすくませる。と、同時に、
『胸でけぇな、コイツ』
そんなささやき、いや、はっきりとした声が聞こえてきた。一瞬、目の前の彼が発言したのかと思えるほどに。
驚きのあまり、楓は丸くした目で彼を凝視する。
「聞こえましたか?これを外しなさいと言っているのです」
楓が反抗していると受け取ったのか、彼は強い口調で言ってきた。楓は、慌ててヘッドフォンを取る。とたんにささやきが増した気がして、楓は眉をひそめる。
楓は男性は苦手だ、ちょっときつく言われただけで、もう逃げたくなってしまうほどに。
楓が改めて観察すると、彼はこの高校の制服を着ていた。校章を確認すると、どうやら二年生らしい。
「ミュージックプレイヤーの持ち込みは禁じていませんが、校内での使用は禁止です。使用している現場を発見した場合、放課後まで風紀が預かります。そのつもりでいなさい」
ヘッドフォンを外した楓の耳に、身体に響くようなバリトンの声がまくし立てる。
「……あの、せめて校舎に入るまでは」
「わかりましたか?」
楓は小声でお願いしたが、それに被せるように了承を問われた。
「……はい、わかりました」
仕方なく、楓はヘッドフォンをカバンに仕舞った。
「行ってよろしい。そこの男子、ネクタイはきっちり締めなさい」
男はもう楓から視線を外し、他の者へと注意をしている。先ほどの口ぶりからすると、風紀委員の人なのだろう。
――さっきの声、どれのだろう?
楓は軽く周囲を見回してみたが、それらしいものは発見できなかった。
石守楓には、変な体質があった。石の声が聞こえるのだ。
道端に落ちている小石から、建物に敷かれている天然大理石の床材まで、石と名のつく物から声が聞こえるのだ。それはささやきだったり、大声だったりする。頭がおかしいと思われたくないので、他人に言ったことはないが、掛け値なしの真実である。
何故そのような体質なのか。それはおそらく、楓の家である神社が関係していると思われた。神社の名は石守神社、その名の通り、石、というか岩を祀っている神社である。
楓の物心ついた頃には、もう声は聞こえていた。しかし両親や兄には聞こえないらしく、幼い子供の妄想だと思われた。本当のことを言っているのに、信じてもらえない。混乱する楓を諭したのは、今は亡き祖父であった。
『いいかい楓。その声は、石たちの内緒のお話なのだよ』
内緒話だから、言いふらしてはいけない。幼い楓に祖父はそう言い聞かせた。幼い子供に難しい説明をしても理解できないと、祖父は思ったのだろう。
だがその教えを守った楓はそれ以来、石の声のことを話さなくなった。そうすると、両親や兄から、奇異の目で見られることがなくなった。
楓が成長するにしたがって、祖父はいろいろなことを教えてくれた。祖父も石の声が聞こえる人間であったが、楓よりもごく弱いささやき声しか聞こえないこと。楓の方が能力が高いこと。
『これは石神様が与えてくださった力だ。感謝して、よいことに役立てるのだよ』
そう言って、楓を唯一理解してくれた祖父は、二年前に亡くなった。
『楓のことををわかってくれる人が、現れるといいね』
祖父は最後まで、楓のことを心配してくれた。
入学式が終わると、教室で担任の紹介と、今後についての確認である。担任は温和そうなおじいちゃん先生だった。男性が苦手な楓も、恐怖心が和らぐ相手でホッとする。
そういえば、入学式で先ほどの男子生徒を見た。あれほど整った顔立ちは見間違えないだろう。在校生の集団の中で、特別存在感を放っていた。
「では、解散」
田中先生というらしい、おじいちゃん先生の声で、ホームルームは終わった。ざわざわと生徒たちが動き始めるが、楓は一人席に座っていた。
――ああ、外に出たくないな
人工物である建物の中にいると、石の声が聞こえにくくなる。なので、建物の外に出るということは、楓にとっては大変な勇気をともなうものなのだ。
楓が携帯電話をいじっているフリをして、外に出るタイミングを自分の中で見計らっているうちに、教室には誰もいなくなった。そろそろ行かなければ、と楓が渋々席から立つのと、教室ドアが開くのが同時であった。
「あら、まだ残っている子がいたのね。誰かと待ち合わせ?」
若い女教師が、楓に声をかけてきた。ふわふわにパーマがかかったショートボブの、可愛らしい印象の先生である。
「……いえ、もう帰ります」
「そう?忘れ物をしないようにね」
優しそうな笑みを浮かべる彼女は、小振りなブローチをしていた。入学式であるので、いつもよりオシャレをしているのかもしれない。花の形のブローチで、真ん中にきれいな石があしらわれている。
『シネシネシネ……』
しかしそのブローチから、物騒な声が響いていた。ささやきではなく、はっきりとした声だ。
楓は驚いてそのブローチを見た。
「……それ」
「このブローチ?恥ずかしいわ、安物だからあまり見ないでね」
照れたように、女教師がブローチを撫でる。
「いえ……可愛いな、と」
「そう?ありがとう」
楓は適当に言い繕った。ブローチの石の声が聞こえただけだ。その内容が少々過激であったのが、一体なんだというのだろう。楓とて入学早々、おかしな奴だと思われたくはない。
――朝から、ろくなことがない
楓はひそかにため息をついた。朝も、いやな声を聞かされたのに。もう帰って、家で大人しくしていよう。そう決心した楓がカバンを手に取ると。
「先生、他の一年の教室に忘れ物はないようです。……おや?」
男子生徒が、教室を覗いて声をかけてきた。楓にとって、なにやら聞き覚えのあるバリトンの声だった。
「本郷君、ありがとう」
女教師が、その生徒にお礼を言う。
「じゃあ本郷君も、今日はもう帰っていいわ。お疲れ様」
「はい、先生お疲れ様でした」
本郷という名前らしい、男子生徒が女教師に軽く頭を下げた。
「あなたも、気を付けて帰りなさいね」
「……はい」
楓も挨拶程度に頭を下げる。
話の流れからして、もう少し教室に残りたい、とは言い難かった。仕方なく、楓がのそのそと歩いていると、何故か本郷は教室のドアのあたりで止まっている。早くどこかに行ってくれればいいのに。
「もう新入生は全員帰ったと思っていました。探し物でもしていましたか?」
本郷が楓に声をかけてきた。一人教室に残っていたことを、怪しまれているのかもしれない。
「そういうわけでは……、ただ、ボーっとしていただけです」
楓が言い訳めいたことを言うと。
『いいカラダしてんじゃねぇか、好みだろう』
またあの声だ。本郷の声とよく似ている気がする。これは一体、なんだろうか。いや、そんなことよりも、もうここから早く去ってしまいたい。
「あの、用事を思い出しました。失礼します」
楓は早口でそう言うと、本郷の前から足早に去っていった。