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LOTUS  作者: 柊ゆぅ
2/2

始まりは殺人から

ことはもう少し前に遡る。


和泉愛菜(いずみまな)

現役高校生。

因みに2年。


両親がいないあたしは、今は小さなアパートで1人暮らし。


別に寂しくなんか無い。


親友の山津飛鳥(やまづあすか)だって遊びに来てくれるし、たまにみんなでお菓子パーティーをしたりもしてる。


つまりは遊び放題。

別に辛い毎日を過ごしてる訳じゃない。


ただ、その分毎日バイトしてる。

いくら安いアパート代とはいえ、今後の将来のことを考えればいずれお金は必要になるし、両親が残してくれたお金を無駄に使うことは避けたい。


心配してくれる先生や友達がいるけど、バイトが休みな日はこうしてみんなと遊ぶし、自分の好きなことも出来るから苦じゃない。


「お疲れ様です!」

「おー、お疲れ〜。

今日は楽しそうだな。

これからデートか?」


店長に指摘され、あたしは笑顔を見せた。


時刻は夜の11時を回っている。

そんな時間でも、今日という日はあたしにとって、とても大切な日だった。


「今日は両親が亡くなった日なんです!」


店長はポカン、と目を丸くしていた。


そりゃそうだ。

こんなに嬉しそうに両親の死を告げる娘はいないだろう。


でも、あたしはそんなの気にしてなかった。


だって、両親のお墓に今日中にお参りに行けること──こちらの方が、あたしにとっては大きな意味があったから。

だって、両親は、あたしを護って死んでいったから。

そんなことを知らない店長は、あたしの一言に相当ビックリしたようで、あたしの姿を目で追いながら固まってしまっていた。


あたしは自動ドアを抜けて店長に頭を下げると、真っ暗な道をルンルン気分で歩いて行った。


☆☆☆


着いたのは家から歩いて少しのところにあるお墓。


夜のお墓は別に明かりがある訳でもなくて、普通なら恐いと感じるだろうが、あたしはそうは思わなかった。

お墓にあるのは、墓石と、骨と、壺ぐらいだ。

そこに花が添えられていたり、線香が焚かれていたりするが、だからそこに霊がいる訳じゃない。


骨が全部霊な訳でも、いつもそこに霊がいる訳でもない。


人がいるから霊がいるっていうのがあたしの持論で、実際、こうして何度か夜中にお墓に来たことはあるが、幽霊に出くわしたことは一度も無い。


でも、霊感が無いかと言ったらそうではないと思ってる。

現に、両親が亡くなってからというもの、たまに何かの気配を感じる。


それは両親とは異なる何か。


両親が夢枕に出てきたことは一度も無い。


でも、例えば他人の背中に憑いてる霊なら見えているのは間違いない。


しかも、はっきりくっきり。


まぁ、あんまり気にしてないけど。


憑いていると言っても、悪い霊は見たことがない。


大抵、その人が心配で“着いていってる”感じだ。


あたしの周りにだって、きっと同じように憑いてるんだと思う。


両親は心配して無いから見えないのかもしれないけど。


真っ暗な道をケータイでライト変わりに照らしながら歩くと、『和泉家之墓』の文字が見えた。


あたしはあらかじめ持っていたお線香を焚いて、さっき摘んできたお花を添えた。


手を合わせて、目を瞑る。


「今年も来れました。

あたしは元気です。

まだまだ生きられそうです」


あたしが冗談っぽく呟くと、誰もいない墓地なのに笑いそうになった。


「幸せです。

だから、みんなの分まで強く生きます。

どうか見守っててください」


あたしは目を開き、そこに誰かがいるかのように墓石に触れた。


冷たい感覚は現実を突き付けるけど、あたしは頭を撫でるように墓石を撫でた。


頬を一筋の涙が伝う。


やっぱり慣れないのは、なんでだろう?


何年経っても、ここへ来ると自然と涙が溢れる。


ここには骨しか無いのに。


「…また来るね?」


そう呟いて、あたしはお墓を後にした。


☆☆☆


帰宅途中。


自分の家のアパートまでは歩いて10分ちょい。


山の麓の住宅街にあるあたしの家は上り坂で、歩き慣れていても結構キツい。


最近、残業が多いからか珍しく疲れが溜まったらしいあたしは深くため息をついた。


あと少しなんだけど…

珍しく上れない。


何より、足が重かった。


神立(かんだち)公園までたどり着いて、辺りが霧に包まれてることに気づいた。


そういえば、さっきより気温下がったのかも。


そう思いながら早く帰ろうと決意して一歩踏み出した時だった。


あたしは見てしまった。



ズサッ……


「ヴッ…!」



男の人が口を手で押さえつけられ、後ろから何かに刺されているところを。


明らかに、冗談じゃない!


あんなにリアルに痙攣なんてしないだろうし、いくら霧が出ているとはいえ、抱き合ってるのかそうでないかぐらい見分けがつく。


どうしよう…!


と、とにかく警察に…


あたしがカバンからケータイを取り出した時だった。


フワッと右手を包み込む冷たい感触。


覆い被さるように、後ろに感じる真っ黒な何か。


それが、彼の掛けてる真っ黒なマントなのだと、後から分かった。


ゆっくり顔を上げ、息を飲む。


目の前には、マントに着いてるフードを被り、口元は黒い布で隠し、漆黒の瞳があたしを捉えて冷たい光を放っていた。


風が舞い、香りが漂う。



この匂いは…線香の香り。



「…何をしている?」


低く、頭に響くような乾いた声。


──死神…


あたしは瞬間的に、そう思った。


「この姿が見えるのか?」


彼の手が、喉元に伸びる。


まるでナイフか何かを突き付けられるみたいな気分だった。


感情の無い声に、あたしの耳が刺激されて痛くなる。

あたしの心臓は、うるさく危険信号を発していた。


逃げなきゃ…!


そう感じた時だった。



「…見られたのなら、殺すしかない」



男は冷えきった声で呟いた。


あたしは感じた。

喉元に当たる冷たい感触。

それは彼の腕なハズなのに──鋭利な物へと形を変えて、あたしに一筋の赤い線を付けた。


「っ…イヤッ!!」


あたしは彼を両手で押し飛ばし、さっきまでの疲れが嘘のように全力で走り出した。

意外と、先程の恐怖は無かった。あたしはこんなことで死ねない!

さっき、元気だって、みんなの分まで強く生きるって言ったばっかりだもん!!


なのに、こんなとこで、誰の役にも立たないで死ぬなんて出来ない!


角を曲がり、あともう1つ先の塀を越えたとこ…

あたしには希望が見えていた。


あと少し。

家に着けば、きっと…!


そう、思ってたのに。

目の前には、もう既に彼がいて、あたしの前に立ちはだかっていた。


「もう!なんであたしなのよ!!」


荒れる息を押さえながら、あたしはギリッと歯を噛み締めた。


悔しくて、悔しくて、涙が滲んだ。


せっかく、両親が繋いだ命。

それも、こんな形で摘まれてしまうの?


あたしの両親は何のために死んだの?


あたしはまだ死ねないの!


あたしが幸せじゃないと、意味無いんだから…!!


ギュッと手を握り締めた。


「…何故恐怖しない?」


「えっ…?」


意味が分からず、あたしはただ目を丸くしていた。


怖がれって言いたいの?


でも、怖がる要素なんてどこにも…


「…そうか。

お前も…」


気づけば、彼は目の前に立っていた。


いつの間にか右頬には彼の手が添えられている。


「和泉愛奈…」


「えっ!?」


確かに、この人あたしの名前呼んだよね!?


真っ直ぐ見つめる彼の瞳を見つめ返し、あたしはなるべく小さく息を飲んだ。吸い込まれるような漆黒の瞳は、鏡のようにあたしを映し出している。


「…死神には気をつけろ」


「はぃ?…っ!!」



気づけば、あたしは布越しに彼にキスされていた。


全く訳が分からないけど、間接的であれ、それはあたしにとってのファーストキスで…


そのまま殺されてしまうんじゃないかと変なところでドキドキしていたが、彼はゆっくりした動作で耳に何かを囁いた。


小さく一瞬、だけど言葉のように聞こえた。


そして、それを聞いた瞬間に、あたしの意識は真っ暗になった。


☆☆☆


ピピピピ──…


「ん〜…うるさいなぁ…って!わぁ!!」



ガタン!!



大きな音と共に、あたしは勢い良く床に落ちた。


「痛ぁ…頭打ったぁ…寝相悪っ!」


一人暮らしに慣れすぎたせいか、あたしは独り言が多くなった気がする。


自分に寂しい突っ込みを入れ、大きく伸びをして、カーテンを開け、窓を開く。


昨日の夜は寒く感じたけど、今はだいぶ暖かいみたいだ。


…ん?


昨日の夜??


あたしは窓から身を乗り出して道路を見る。


あたしの部屋は角部屋だから、帰ってくる時の道は横の窓から見える位置にあるのだ。


何もない、ただの道路。


大家さんが箒で通りを掃いているぐらいだ。


でも…不思議と違和感は消えない。


何かあった気がしてたのに、何も思い出せない。



確か、あそこで何か──



でも、気にしていられない。


とりあえず学校行かなきゃ!!


あたしは窓を網戸にして、レースのカーテンを敷いた。


ふと、鼻を掠める香り。これは…お線香の匂い?


それも一瞬で、あたしはお墓参りに行ったからだろうと、気にせず洗面所に向かった。


☆☆☆


「おはよー愛菜!」


学校に着くと、一番に飛鳥が声をかけてくれた。


「おっはよ〜飛鳥っ!」


あたしもいつも通り元気に声をかける。


至って普通で、何も変わってない。


でも、何か引っ掛かった感じがするのは…あたしだけ?


「よっ!和泉!!」

「あ…翼!」


あたしが声を上げたのは、今関翼(いまぜきつばさ)があたしの机に座りながら、堂々と挨拶してきたから。


「もう!汚れるでしょ!!」


あたしが頬を膨らませたまま翼を机から押し出すと、翼は俺はそんなに汚くねーよと意地悪な笑みを浮かべてきた。


「汚い。汗臭いよサッカー馬鹿!」


「はぁ?朝練の後はちゃんと汗流してるし制汗剤だってたっぷりかけてますよーだ!

めっちゃいい香りだろ?」


「翼臭が濃すぎて感じない」


ムッと目を細めて睨んだまま、あたしはさっさと自分の席についた。


「翼臭だと…(笑)

お前どんだけ鼻いいんだよ!!」


翼は怒りながら笑って、自分の制服の臭いを確認してた。


まぁ、そんなことしても無駄なんだけど。


自分の匂いは他人にしか分からないしね。


いや、ホントは臭くないけど。


会話からも分かるように、翼は構ってちゃん。


そして何故かあたしに絡みが濃い。


だから若干ツンツンしてしまうのはあたしの悪いところなのかも。


翼が嫌いな訳では無いけど、どうしても素直にはなれない。


この…自分を変な意味で必要としてる感じとか、ちょっと照れてしまうからかな。


あたしはソッポを向いて窓の外へ目をやる。


「まぁまぁ喧嘩しない…」


そうやって宥める(なだめる)のはいつも飛鳥の仕事。


実は、あたしと飛鳥と翼は中学からの同級生だ。


飛鳥と翼が幼なじみで、あたしはちょうど転入してきた時に仲良くなった。


たまに翼もあたしの家に遊びに来る。


ただ、男子として見たことは一度もない。


翼はサッカー部で一番のイケメンと称されてる。


でも、あたしから見たらただ浮かれたガキンチョで、こいつのどこがカッコいいのか分からない。


部活やってるから短髪なんだけど…いちいち立てる意味が分からない。


肌だって日に焼けて顔黒だし、正直ただのチャラ男にしか見えない。


まぁ…だから一緒にいられるってのもあるんだけどね。


ちなみに、飛鳥もモテる。


飛鳥はどちらかと言えば大人しい子だ。


セミロングの髪はサラッとまとまっていて、前髪は流行りのパッツン。


眉より下で綺麗に切り揃えている。


クリクリっとした瞳がやっぱり可愛い。


翼と飛鳥が生まれてからずっと一緒だと聞くと、どこをどう間違えて正反対の性格になったのか、あたしには謎で仕方ない。


「そ…そういえばね、今日転入生来るんだって!」


飛鳥は場を宥めようと声を上げた。


もちろんあたしも翼も反応する。


「女?女か!?」


翼は身を乗り出して飛鳥に問うが、飛鳥は困ったように首を傾げる。


「さぁ…朝学もらうのに職員室入ったら先生がその話してただけだったし…本人は校長室にいたみたいだから…」


飛鳥はとにかく思い出せることを口に出しているみたいだ。


朝学と言うのは、SHRの前にやるテストみたいなもの。


実力を計るだけのものだし、自分がどれだけ復習してるか確認を取るものだから成績には関与してない。


飛鳥は学級委員だから、ということでこのテストを任されている。


翼は面白い話を聞いたとばかりに顎を擦った。


「へぇ〜…見に行こうか?」


「今から?」


あたしは椅子に座って肘を立て手に顎を乗せながら、あと1分でチャイムの鳴る時計を見つめた。


「あと1分もすれば本人が来るでしょ?

それくらい待ちなさい?」


子供なんだから〜と呟いて、あたしは薄く笑うと、翼は何を〜!とあたしに迫ってきた。


「はっ!ちょっ…ハハッ…脇はやめて(笑)」

「問答無用♪」


椅子に座ってたあたしは抵抗出来ずに、ただ擽られて(くすぐられて)目に涙を溜めた。


翼は容赦無く擽り、飛鳥は翼の後ろで一生懸命引っ張っていた。


何気無いやり取り。


それはいつもの朝と何ら変わらなかった。


頭を掠めるのは線香の香り。


どうしてここまで、頭に残るのか、あたしにはまだ理解出来ていなかった。


そのことで、何が起こるのかも…


チャイムが、鳴った。


☆☆☆


「ほらほら、いつまでやってる。

ホームルーム始めるぞ〜」



別に怒る気無しにそう告げ、生徒を促し教壇に立つ、担任の尾形淳一(おがたじゅんいち)先生。


皆が渋々と席につき、あたしもようやく擽りから解放され、深くため息を落とす。


翼はしてやったぞと満足げにあたしを見やるから、あたしは胸に手を当て、呼吸を整えながら口パクで「ばーか!」と伝えた。


昔っから擽りは苦手だ。


やられると分かった瞬間には力が入らなくなって抵抗出来ないくらい。

それもこれも翼のせいなんだけど。


だって、やったら倍にして返されるんだもん。


こんなの中学生の時にやってたらただのイチャイチャカップルだったのかもしれないけど、あたしたちの中にはそういうのは無くて。


翼と飛鳥は、あたしの家の事情を知ってる。


だから、あたしも自分をさらけ出すことが出来たのかもしれない。


2人に出会わなかったら、あたしはまた違う人になっていたのかも。


そう感じるときは少なくない。


どんなに罵って(ののしって)も(罵る相手は翼だけだが)やっぱり大切な存在だ。


「ほら今関!早く席につけ」

「はいは〜い!

今着きます♪」


なんておちゃらけて皆の笑いを取る翼。


何やってんだかと思ってあたしも笑う。


まぁ先生はあんまり良い気持ちじゃないみたいだけど。


そりゃそうか。


廊下に転入生を待たせてるんだから。


曇りガラスの向こうに人影が見える。


案外長身のその影は、とても女子には見えない。


だとしたら、やっぱり男の子。


先生は一つ咳払いをした。


「…では、皆も聞いた人もいるとは思うが、転入生を紹介する」


翼が何か言うんじゃないかと思ったけど、案外黙って耳を傾けていた。


みんな、若干緊張しているみたいだ。


飛鳥ですら、頬を赤く染めている。


当たり前か。

普通、転入が決まったりしたら、先生は数日前ぐらいにクラスの皆にある程度話して、仲良くさせる計画を練るハズだ。


高校で通用しない屁理屈だったにせよ、いきなり転入生っていうのはおかしい。


つまり、先生たちも突然だったんだ。


昨日とかに急遽決まったとか、そういう連絡の伝令が遅かったとか。


尾形先生の表情を見ると、どちらとも言いがたいが。

…眠そうだし、これといっていつも通りだ。


このクラスに決まった理由も、ある意味納得する。


先生が、ある意味放任主義で、少しのことじゃ動じないようなタフな先生だからだ。


それと、実は8クラスあるこの学年で、一番人気のある先生は尾形先生だ。


…適当で放任主義で楽だからだろうけど。


そして、転入生が来る一番の理由は…


この前1人転校したから、だ。


そう告げて、「入って」と扉の方に呼び掛けた。


ガラガラガラ──…


横に扉が押し引かれた。



真っ黒な髪。

真っ白な肌。

薄い唇。

細くキリッとした眉。

長い睫毛。

シャープな顎のライン。

綺麗に浮かび上がった鎖骨。

スラッとしたスタイル。


真新しい制服に身を包んだ、清楚な姿のその彼は、こちらには一度も視線を向けず、伏せ目がちに教壇の横に着いた。


その間に、先生が黒板に名前を書いていたけど、あたしは彼から目を離せずにいた。斜めに分けられた前髪も、案外長い襟足も、ふんわり横に広がった、それでいて癖の無い自然な形も…どこかで見覚えがある。


まるでスタイリストがアレンジしたものをそのままにしてきたような、綺麗な整い方だった。


派手過ぎず、そうかといって雑じゃない。


まるでモデルだ…


そう思っていた時、おもむろに、彼は目を上げた。


それも、こちらに。



ドクン──…



全身の毛が逆立つのを感じた。


あたしを冷たい空気が覆った気がした。



ドクン──…



“ジェルファ…”



耳に感じたのは、小さな声。


冷たく、短い、でも頭に残る言葉。



ドクン──…!



“眠れ…”



ハッとした瞬間、昨夜の記憶が一気に頭を駆け巡った。



寒気、悪寒…


死への予感。



漆黒の瞳に吸い込まれて、あたしは目を反らすことが出来なかった。



“死神には気をつけろ”



彼だ。


その瞳から伝えられていく昨日の記憶。


まるで、記憶は全て彼に抜き取られてたかのような錯覚を憶える。


いや、これは錯覚なんかじゃないんだ。


彼がまた目を伏せた時には、あたしは全てを思い出して息を呑んだ。


ほんの短い時間。


ただ、彼が窓の外でも見るかのように視線を上げただけの時間。


長く感じたのは、あたしだけだ。


「あぁああーっ!」

声を上げて立ち上がったのは、ちょっとギャル系で先生にもタメ語を使う大井手薫(おおいでかおる)ちゃん。


彼が目を伏せた後で、あたしは心臓が止まりそうな程ビクッと跳ねた。


「うるせーよ薫」


隣の翼が耳に指を突っ込みながらアピールした。


「だってだってだってぇ〜!!」


彼を指差しながら小刻みに跳ねる薫ちゃんは興奮MAXらしい。


目を真ん丸にして、何かを訴えるように翼に投げ掛けているけど、翼は眉間にシワを寄せて明らかに嫌そうな顔をした。


みんなもざわざわしながら、薫ちゃんに視線を送り、続きを待つ。


あたしはそんな中でも彼への警戒心は解かずにいた。


まさかとは思うけどまた殺されそうになったら…


いや、あり得る。


あれだけ瞬間移動みたいに素早く動けるんだから、隙をついてあたしを殺すぐらい楽な話だ。


しかも、誰が殺したか分からないぐらいにだって可能だと思うし…


飛び道具なんかだったら一撃でアウトだし!


いつ何されるか分かんないから、あたしは彼から目線を外さないように、瞬きを減らしてジッと見つめていた。


彼はすました顔でまだ目を伏せている。


「あのねあのねあのねあのねなの!!」

「だから何だよ!!」


翼が容赦無く突っ込むと同時に、先生が手を止めてこちらに向き直った。


その時ようやくみんながまた前を向いた。

そして、そこで言いたいことのピースが合致したのか、先生の言葉を待たずに薫ちゃんが大声で叫んだ。


「えー…」

「今新人モデルで注目を集めてる人気No.1の竜崎蓮なのぉ!!」


………


みんなが一瞬目を点にした。


この時、クラスのみんながみんな、何を言われてるか理解出来なかったんだと思う。


あたしにとって、その時はどうでもよかったんだけど。


何人かが無言で顔を見合わせた。


目配せして、首を傾げて、また彼を見て…


更には黒板に縦書きにされた大きな『竜崎蓮』の名前を見て、


「「えぇぇえええ〜!?」」


…あれほど、クラスがまとまったことは、多分今まで一度も無かったと思う。


みんなが、一斉に叫んだ。


「嘘だろ!?

本物!?」

「そっくりさんじゃなくて!?」


周りが一気にざわめく中、先生はタイミング良く咳払いをしてうまく生徒の視線を向けた。


「じゃあ、蓮くん、自己紹介して」


みんなが息を呑むと、蓮と呼ばれたその人物は視線を上げた。


薄い唇を滑るように動かす。


「竜崎蓮。

仕事の関係でこっちに来ました。

よろしく」


この前より低く感じないのは、きっとあの時より大きな声を出してるから。


警戒と、他に聞こえないように囁いていた彼の声は、こんな優しい声じゃない。

今こそ口元は自然に微笑んではいるものの…あたしは気づいていた。

──彼の漆黒の瞳は、先ほどと変わらずに冷たく光を放っていたこと。


「きゃ〜!!」

「本物じゃん!」

「スゲーあの大物だっ!!」


みんながそんなこと知るよしも無く、ただ目の前に現れた有名人に興奮して目を輝かせていた。


──あたしを除いて。


「どうしたの愛菜ちゃん?」

「へっ!?」


いきなり声をかけられて、あたしはハッと隣を見た。


そこには不思議そうにあたしの顔を覗く高杉健次(たかすぎけんじ)君の顔があった。


「なんか恐い顔してる」


彼はクスッと笑った。

声はスゴく低くて無愛想なのに、案外優しい表情をするのが特徴的だ。


もしかしてずっと見られてた?


わっ!

彼をガン見してたのバレてるのかも!!


「そんなことないよ!!

ちょっと考え事してて…」


あたしが慌てて顔の前で手を振って答えると、ふと、違和感に気づいた。


「ふーん…それにしては随分と──…」


彼は教壇の方を見つめて口を開いたけど、彼の声が聞こえないぐらい、あたしは自分の記憶に集中した。


あたしの隣の席は、高杉君で間違いない。


顔を覗かれたことは、これが初めてでは無い。


でも…彼の席、こんなに距離無かったよね?


あたしたちの席の間に、通路なんて無かったよね?


そもそも───あたしの右側じゃ無かった…よね?


「じゃ、竜崎の席は──…」

先生の声は、あたしの耳に入っていなかった。


左隣に視線を移す。


小学校か中学校みたいに、くっついた隣の席は、ちゃんと存在している。


一番後ろで、一番窓側。


記憶が、白黒に映し出される。


「和泉…さん?」


胸の辺りが凍りつくような、低い声が聞こえた。


ハッとして顔を上げる。


いつからそこに居たのだろう?


彼──竜崎蓮は皆に向けたように優しく、射殺すような視線を向けたままあたしに微笑んだ。


「よろしく」


あたしのことを殺そうとした彼は…隣であたしを追い詰める気でいるらしかった。


☆☆☆


「はぁ〜…」

「何?それ恋のため息?」


お弁当を食べていると、飛鳥がフフッと笑った。


あたしはムッとして顔を膨らませながら飛鳥を見つめた。


今は彼が職員室に呼び出されていていないからこうしていられるけど…


あたしは一度、彼に命を狙われたんだよ!?


それが、今こうして隣の席に転入してくるという最低最悪かつ前代未聞の事件。


これが気を張らずにいられますか!


…なんてこと、飛鳥には言えなくて。


「何度も言うけど、あたし恋求めてないから。

彼のこと好きじゃないし」


「えぇ〜あんなカッコいい人が隣なのにもう嫌いになったのぉ?」


飛鳥は目をぱちくりさせた。


天然…なのかなぁ?


飛鳥からはホワホワとした甘いオーラが出てる。因みに、そのオーラが無くなったことはほとんどない。


「うん、大っ嫌い」


あたしは素っ気なく告げると、最近ハマリの抹茶オ・レを手に取ってストローをくわえた。


飛鳥はあたしの言葉を聞いてポカンと口を開く。


「愛菜って、嫌いな人いないんじゃなかったの?」


口の中にほんのり甘味と、抹茶独特の渋さを感じた時、飛鳥はそう呟いた。


あたしは視線を飛鳥に戻す。


確かに、今まであたしには嫌いと呼ぶ相手はいなかった。


長所を見つけるのが得意だからだ。


どんなに嫌われてる人でも、必ずいいところがあるって知っているから、嫌いにはなれなかった。きっと、竜崎蓮にも良いところはあるだろうし──それが芸能面だけだとしても。


でも…あの冷たい瞳を、好きになることは出来なかった。


そして、彼は一度はあたしを殺そうとしてきた人だ。


“見られたのなら──”


彼はあの時、そう言ってた。


その声には、同情も苦悩も何も無かった。


彼には、それが仕事でもあるかのようなことだったに違いない。


そして、彼は人を殺すことに、何ら躊躇いも持たないんだ。


人の命を奪うことに、心を揺らぐことも無いんだ。


彼はそれくらいに残酷だ。


あの瞳が、それを語っている。


「彼は…好きになれないかも」


その前に、あたしは彼に殺されるかもしれない。


両親が守ってくれた、大切な命を、彼が奪ってしまうかもしれない。


そう考えたら、敵対視しか出来なかった。


授業中だって、心にバリケード張って、殺されないように考えてるのに。


万が一、今日があたしの命日にならないように、必死なのに。


彼の良いところ探す暇なんて、あたしの心にはそんな余裕無かった。


「そっかぁ。

相性が悪いのかもね?」


飛鳥はそう言って、それ以上その話題を出しては来なかった。


あたし、酷い顔してたんだろうか?


顔に出てた?


飛鳥に気を遣わせるなんて…まるで翼みたいだ。


でも、相性だけの問題じゃないんだと思った。


出会いが悪すぎた。


もし、今日が初めてだったなら、きっとあたしは普段通りに話もしたし、目を合わせて話すことも出来たのだろう。


でも、もう無理だと思う。


あたしは彼を、人殺しとしか見れない。


「それより、高杉君とはどうなの?」


「…はい?」


あたしは首を傾げた。


何をどうして急に高杉君が出てくるのだろう?


「彼いい人だし、仲良いんだから、何かあったりしないのかな〜って」


飛鳥は柔らかく微笑み、後は自分に聞かせるように言った。


「隣の席にライバル出現かと思ったけど、愛菜がそう思ってるなら、大丈夫なんだろうなぁ〜」


あたしはそれに何も答えなかった。


高杉君は案外モテるし、イケメンの部類なんだと思う。


でも、飛鳥には言えないけど、あたしに恋愛感情は無い。


いくら仲良くしてても、友達としてしか見られないのだ。


第一に、あたしはそういう対象の男子に会ったことがない。


何か、感じ方が違うのだ。

付き合ったことは一度もない。


そういう意味で、好きだと感じたことがないから。


高杉君にしても同じなのに、彼に対してなんて──


ブルブル…と体が震えた。


☆☆☆


放課後。


「ここが保健室。

ここでは──」


あたしは声は優しくも、表情は張り詰めたまま、各教室を案内していた。


それも…竜崎蓮を。


彼は少しだけその扉を見つめ、分かったと呟いてすぐにあたしを見るから、あたしはいつもその目から顔を反らして先に歩き出していた。


内心、なんであたしが…という気持ちが強い。


それもこれも、あの適当な担任のせいである。


SHRが終わる時、あたしはいつものように席を立ち、学級委員の号令に合わせて礼をしようとした。


「あ、忘れてた、神崎」

「はい?」


もう1人の学級委員である神崎直(かんざきなお)は、一番前の席で首を傾げた。


真ん前に先生がいるから、2人だけで話しているような形だが、周りは中々不快な感じだった。


あと少し早く彼が「礼」と言っていれば、みんなすぐにそれぞれの活動に移れたのだから。


あたしだって、早く帰ってこの隣の席の竜崎蓮から一刻も早く離れたかった。


実際、帰りに着いてきて殺される予感がして気が気じゃない。


後ろからグサッ…なんて、あの公園の中にいた人と同じだ。


あれ?そもそも、あの人はどうなったんだろう?


あんなに足の速い彼をもってしても、あの人の生死はまだあの段階で決定していなかった。


あたしが見ていたうちは倒れてもいない状態だった。

それが、ケータイを探してる僅かな時間に、彼はあたしの前に現れたのだ。


遺体を隠す暇は無かった。


もう1人いた──?


試行錯誤しているうちに、先生は直に頼みごとをしていた。


「竜崎はまだこの学校の設備について知らないから、今日これから一緒に教室の案内をしてやってくれないか?」

「えっ…?

今日はちょっと…生徒会の集まりがありまして…」


実は、学級委員である直は生徒会でもあった。


一番しっかりしてるから直に頼んだのだろうが、仕方ないだろう。


男子ってところもあるし、友達作りにはもってこいなのかも。


先生は「そうか…」と残念そうに肩を落とす。


あたしたちの学校は案外広い。


校舎は4つあって、第1校舎が1年生がいる校舎。


特に先生絡みの校舎が多くて、保健室や事務室、購買もここの1階にある。


あたしたちがいる第2校舎は2年生の校舎で、1階には音楽室や美術室などが集まっている。


3年生の校舎は逆で、1階に生徒、2階に広い図書館が設置されている。


もう1つ離れにあるのが旧校舎で、ほとんどは荷物置き場みたいな形で使われており、ほとんど入ることはない。


職員室は各校舎に1つずつあって、それぞれの学年の先生が集結している。


校舎自体は校門から見て校庭を挟み、第2校舎を正面に左に第1、奥に第3校舎、そのさらに奥に旧校舎があり、右には体育館があって中庭を囲う作りになっている。


生徒は皆必ず第2校舎の昇降口を通って登下校を行っている。


職員は第1校舎の昇降口だが、たぶん理由は来客用に使うためだ。


生徒が失礼なことをしないため。


「あ…じゃ、和泉!」

「はい!?」


困った顔で彼に目を向けたかと思えば、先生は閃いたかのようにあたしを見た。


回想に入っていたのと、完全に油断していたあたしは思わず変な声を上げてしまった。


翼が微妙に吹き出したことに気づいて一瞥し、先生を見る。


みんなも普段出さないあたしの声に笑いを堪えていた。


自分でも分かるくらい顔が熱かった。


「席も隣だし、今日はバイトも無いんだからフリーだろ?

竜崎をよろしくな?」


あたしはハッとして彼を見た。


「お願いできる?」


彼は真っ黒な瞳で口元に笑みを浮かべた。


わざとだ…。


こんな困ったように眉を潜めてお願い、なんて…きっと先生に催眠術でもかけたんだ!


あたしの記憶を細工することだって出来るんだし。


それに先生は今、彼と目を合わせてた。


嘘みたいな話だけど…可能性としては、充分ありえる。


「じゃ、お願い愛菜ちゃん!」

「へ?」


直くんが両手を合わせて懇願していた。


というか、あたしが彼に集中しているうちに、みんなの視線がドッと降り注いでいた。


帰りたいとか、早く終われという念まで感じられた。


しかも、今日バイトだけど、学校に届け出していないものだから言うわけにもいかない。


バイトは1つまでと校則で決められているのだ。


これだから進学校は…。


家の近くだから、制服でそのまま行けばまだいいのだけど…


その前に殺されてしまうんじゃないか?


「…分かりました」


もう、いいか。


こうなったら今日を生きて帰る。


バイトは一応連絡して、もしかしたら休むと伝えておく。


もう、それしかない。


こうしてあたしは彼の学校案内人の任務を預かったのだ。


☆☆☆


「──で、ここが屋上」


ようやく1周して、教室のちょうど隣にある階段を登った。


「お昼なんかはよくここでみんな食べてます。放課後は基本的に開いてないんですけど…」


そう説明しているうちに、彼は屋上の扉に手を伸ばした。


「だから、開いてな──…」



ガチャ──…



えっ?


ポカンと口をあたしは開けて瞬いてしまった。


彼は平然と、ドアを開いていた。


「…知りたいんだろ?」

「え?」


彼は射し込む光を受けながら、彼はあたしに視線を移した。


「俺が、ここに来た理由」


彼はあたしを見て、冷たく微笑んだ。


赤い夕陽に浮かぶ瞳は、血の色に沈んでいた。


☆☆☆


信じられない。


あんな状況で…


あたしは早歩きで下校していた。


急がないとバイトに遅れちゃう。


あれほど時間をかけられてしまうなんて思っていなかった。


それもこれも、彼のせいだ。


なんであたしが彼の案内なんて…


何故彼は、あたしを選ぶの?


「遅くなりました!!」

「あら愛菜ちゃん、案外速かったんじゃない?」


近所のスーパーに入ったところで、店長の矢口梨絵(やぐちりえ)さんに頭を下げた。


「急いで来たので…

今から着替えてすぐに仕事入りますね!!」

「そんな急がなくていいのに〜。

じゃ、今日は魚屋さんに」「はい!分かりました!!」


慌ててお店の奥に向かい、レンタルの制服に着替えて身支度を整え、タイムカードに時間を記入する。


魚屋のコーナーに向かうと、裏ではお寿司の追加に大忙しだった。


どうやら注文が入ったらしい。


「手伝います!」


慌ててネタを乗せる手伝いに入った。


正直、この仕事は一番楽だ。

同じことの繰り返しだからだ。


だから単純に順番を考えていればいいのだが、それが裏目に出てしまった。


余計なことがいっぱい頭に浮かんでくる。


特に彼のことが。


あのあと、あたしは結構ですとキツく断って、すぐに階段を下りて荷物を取ってきて学校を後にしたのだ。


正直、彼が恐かったのも事実だ。早く逃げないと殺されそうな気がして嫌だったし…。


彼と口聞きたくなかったし、顔も見たくなかった。


顔が変形でもしてたら恐いし。


…彼ならあり得るでしょ?


昨日なんてあたしを殺そうとしたはずなんだ。


それなのに。


──知りたい?なんて。


バカにするのもほどほどにして欲しいわ。


あたしのヒヤヒヤしてたこの1日返してよ。



『死神には気をつけろ』



ビクッ!!



背筋に寒気を感じて、身震いした。


彼はあの時、死神って言った。


もしかしたら本当に、来るのかも。


彼じゃなくて、死神、が。


☆☆☆


「お疲れ様でした!」

「あ、お疲れ〜」


閉店時間の10時を回ったところで、あたしは慌てて着替えを終わらせた。


高校生には時間に制限があるからだ。


「愛菜ちゃん、最近調子どう?

何にも言ってこないから逆に心配」

「あ!

…いえいえ全然大丈夫です♪」


まさか殺されかけてる、とは言えないしね。


店長こと梨絵さんはあたしの育ての親でもある。


あたしが成長するまで見守ってくれてたのが彼女だ。


お母さんの行きつけのスーパーだったから余計にね。


だからバイトもOKしてくれてるし、たまにおまけしてくれることもある。


ま、バイトはここのことだけで、バイトを掛け持ちしてることは教えて無いんだけど。


基本的に買い物するときはいつもここだから、ある意味ではあたしもお得意さんだ。


「そっか。

なんか気になったんだよね〜

ま、いいや!

気をつけて帰れよ〜」


なんか気になったって…こういう時、梨絵さん変に勘鋭いなぁ…


「はい!

じゃあまた明日お願いします!!

お疲れ様でした〜!」


あたしは早々とスーパーを出ていった。


☆☆☆


結局、今日は何だったんだろうか?


家路を歩きつつ、あたしはイライラにため息をついた。


辺りは真っ暗な住宅街で、100メールに一本街灯があるか無いかぐらいだった。


今日は月が出ていなかった。


その変わり目を凝らすと、あちこちに星が見えた。この辺にしては、星が見えることすら珍しかった。


空気が清んでいるのかな?


そんなことを気にしつつも、やっぱりあたしには今日のことで頭が膨れていた。


殺されるような出来事は何も起こらなかった。


むしろ平和だった。


でも、そしたら何故彼は来たの?


何故彼は、あたしの記憶を消して、また戻したの?


何故わざわざ隣の席になって、何故案内をさせたの?


やっぱり訳が分からない。


彼の目も行動も、読めない。



『死神には気をつけろ』



ビクッ!


またもや鳥肌が立った。


何故こんなにも、あの言葉が引っ掛かるのだろう?


彼はきっと人間じゃない。


それは勘でしか無いけど、不思議さが物語っている。


でも、彼は死神では無い気がする。



『何故恐怖しない?』



あの時恐怖しなかったのは、生きたかったからだ。


彼が恐いより、生きたいっていう気持ちが強くなっていたからだ。


今日会った時も、それを強く感じた。


だから、彼には恐いって気持ちを抱かなかった。


でも、あの言葉は──


彼でない、誰かへの恐怖。



──…



「え…?」


何かが聞こえた気がして、振り返った。


でも、誰もいない。


風が、フッと冷たくなった。

あまりにも突然だから、あたしは身震いして肩を擦った。


こんな空気…この前も──



『死神には──…』



ガシッ!



擦っていた方の手に、氷のような冷たい何かが張り付いた。


心臓が凍るような、痛みが走った。


恐る恐る、顔を向けると、小さな声が聞こえた。



「──死ぬのが、恐いのかい?──…」



ゆっくり動く唇が見え、目を合わせようとしたその時だった。


真っ黒な何かが、あたしを引き離した。


「…──言ったろ?」


声を聞き、あたしは心臓の何かが氷を溶かすのを感じた。


「死神には、気をつけろ、って」


溶けきったと同時に顔を上げた。


一度嗅いだ線香の香り。


そしてマスクの下で、あの漆黒の瞳があたしを見据えていた。


「な…なんで?」


助けに来てくれた…の?


あの後ろの、あいつから…?


そう思って顔を確認するために振り返ろうとした時、顔をガシッと押さえられた。


「い…イタタタタッ!

何す──」


「ヤツを見るな。

目を見たら…死ぬぞ」


ドキッ…!

死ぬ…?


あたしが彼の胸元で目を泳がせると、彼は少し目を細めた。


心無しか微笑んでるように見えたけど、発した言葉は意味不明だった。


「…良い顔だ」


はい!?

どういう意味…?


でも初めて見た笑みに戸惑って顔を反らすと、また後ろの人に視線がいきそうになって慌てて前を向く。


「っ!もう!!

どこ見てればいいの!?」


あたしが嘆くように告げると、彼はまだ先ほどの笑みのままあたしの顎に手を添えて引き上げた。


「俺を見ていろ」

「……は?」


何このナルシストかつSかつ魅惑の新人モデル!!


明らかに最初とキャラが違うし!


あたしが内心ため息をつくと、後ろの人が合わせるようにため息をついた。


「何してんのキル。

証拠隠滅は仕事だろ?

こいつは消さなければならない」


キル?

彼のこと?

でも彼の名前は──


彼は声の方向を見た。


彼は目を見ても平気なのだろうか?


「こいつは俺に恐怖しない。

俺に恐怖するところを見てみたい」


…はい?

あたしは彼の横顔を見つめた。


なんだか学校で見たときよりもイキイキしてて、あたしは眉間にシワが寄るのを感じた。


…それだけ?

あたしを助ける理由って。


「つまり、機関を裏切ると?」


声は静かに言葉を発した。

声はわずかに揺れた。


女の人の声…かな?


「いやラース。

お前を裏切る」


ラースと呼ばれた声の主はまた深くため息をついた。


「ペアを組んだ時から分かっていた。

私もそれを望んでウズウズしていた。

機関で一番と称されたキルを、この手で殺すことが出来ると」


ラースの声が高ぶるのを感じた。


キルを殺す…?


つまり、彼を殺したがってる!?


「機関への説明は簡単だ。キルが裏切り、私が対処したと」


「俺の隙を狙っていたようだが、残念だったな。

先に、お前が消える」


何この現実離れした会話…

殺すとか消えるとか…


不良中学生のケンカみたいだ。


あまりにも物騒過ぎる。


ただ違うのは、もっと物騒なことだ。


目を見たら死ぬとか、あり得ない。


でも芝居をしているようには思えなかった。


お互いの口調が、本心に感じたから。


「奴は目を閉じた。

もう見ても平気だ」


「え…?」


彼はあたしに目を下ろした。


「奴が目を開けるのは1日1回が限度なんだ。

元々、奴は目を使って物を見ている訳じゃない」


じゃあ、何を使って見ているの…?


あたしは首を傾げたが、彼の澄んだ瞳に嘘は無いと感じ、ゆっくり自分を襲った相手に目を移して思わず口元を覆った。


目を閉じるとかの問題じゃない。


フードの下に見える顔は苔が生えているように緑色で干からびていて、目の位置には窪みに薄い膜が張ったような瞼があるだけだった。


眼球が抉られているかのように。


「…恐いかい?

お嬢さん」


ラースは咳き込むように笑った。


「私はとっくの昔に死んだからね。

目玉を抉られ、臓器を切り開かれて。

だからね──」


ラースが背中に手を回したかと思えば、遠くの街灯の光がラースの持ち上げた何かに反射した。


眩しかったのは一瞬きりで、それが何なのか、はっきり見てとれた。


取っ手の短い、大きなカーブを描いた鎌だった。


「この目で殺すよりも、この鎌で臓器を抉り、苦しませて殺す方が好きなんだよ!」


突然、ラースの姿が消えた。


あたしは、彼女に見いっていて呼吸をするのを忘れていたようで、発作のように酸素を求めて息をついた。


ラースには目が無いハズなのに、見つめられていたような感じがして…


残っているのは真っ暗な道路。


その先にも、自分の後ろや、頭上にも、彼女の姿は無かった。


ラースは消えたのだろうか?

いや、あんなに殺したがってる人が、そんな逃げ方をするわけない。


「…死にたくなかったら、俺の後ろから離れるな」


彼は少し前傾姿勢になった。


でも、あたしは気づいていた。


彼は丸腰で、彼女のように鎌を持っている訳じゃない。


あんな大鎌が迫ってきたら掠めただけでも大怪我だ。


なんでこんなに強気でいられるの?


てか、状況説明が欲しい!

あなたたちはペアを組んでる仲間で、人殺しで…


彼はあたしを恐がらせたくて、彼女はあたしと彼を殺したがっていて…


機関って何!?

彼女は今どこにいるの!?


「ちょっと待って!!

武器も無いのに、勝てるわけ無いじゃない!」


あたしはようやく思考と行動の回路を繋ぎ合わせて彼に追及した。


彼はほんの少し振り返り、あたしを見つめた。


「…この前のあれで、気づかなかったのか?」


……?

この前の、あれ?


首を傾げた時。


彼の目前に、鎌を振り上げた彼女がいた。


叫ぶ暇なんて無かった。


彼は視線をこちらに向けたままだった。


気づいていない。


そう思うよりも早く、彼女の鎌は、彼の首目掛けて振り下ろされていた。


あたしはギュッと目を閉じた。


「…忘れたのか?」


今だ彼の声が聞こえて、恐る恐る目を開いた。


彼女の鎌は彼の左腕で止まっていた。


瞬間的に身を守るために腕でガードしたようだ。


でも、彼の腕からは一切出血していない。


更に言えば、彼女の手は震えるほど力が入っているのに、彼の腕はビクともしていなかった。


男女の差…にしてはあまりにもおかしすぎる。


彼の腕は生身のハズなのに、あんな刃物が刺さらないなんて…


「俺の体は、自在に形を変えられる」


彼がそう言った時。


彼女の鎌が滑るように彼の腕をなぞった。


それと同時に、彼の服の袖が綺麗に削がれた。


現れたのは真っ白な、それでいて薄い腕──刀だった。


一瞬骨で出来ているのかとも考えたが、刃の部分は目を凝らせば綺麗な淡い光を放ち、それが刃物独特の光沢を表していた。


冗談なんかじゃない。


今彼の腕は本当に──


ギィン!


耳を塞ぎたくなるような金属のぶつかり合う音がした。


彼の腕はあまり位置を変えていないように見えるが、若干の動きで的確に相手の攻撃を弾いている。


暗いせいもあってほとんど目に見えないが、だからこそ余裕が出たのか金属と金属がぶつかり合う度によく見える小さな火花を無意識に数え出していた。


気付けばとっくに15合を越えている。


記憶によれば、日本刀は人を1人斬ったら使い物にならないくらい刃こぼれするらしい。


だから時代劇のように人を何人も斬り殺すのは難しいしある程度の人数までしか斬れないとか。


だが、彼の刃は刃こぼれを全くしない。


彼同様、涼しげに彼女の鎌を受け止めていた。


「ふふふ余裕を見せつけおって。

その変形(メタム)の刃は己の心と同化しておるのであろう?

お前の心が折れた時──その刀の折れた先にあるのは血か?それとも腕か?」


彼の刀を折る…?


メタムって英語のメタモーなんちゃらから来てる?


つまりは変形?


刀が折れたら──腕はどうなるの?


時差が発生する自分の思考。


彼はまた涼しげな顔で──眉1つ動かさずに──彼女を見つめ、静かに言った。


「折れるものなら…折ってみろ」


自然と彼の瞳から、光が消えた気がした。


彼が何十合目かの攻撃を弾き返し、その反動のまま左手を右から左に薙いだ。


だが、それは空気を裂いただけだった。


ヒュッと冷たい音がした。


あたしは気づかなかった。


彼が振り向くまで。


彼の右腕が刀に変わり、あたしの首筋に届くまで。


グサッ…!


心臓がドクドク言ってる。


それ以外に、音なんて聞こえなかった。


それは何が起きたか、ようやく気づいたから。


目の前の彼の瞳は真っ黒で、感情は何も入っていなかった。


冷たく、無心で、人形のような、暗闇の瞳だった。


呼吸が止まった。


背中が、スッと冷たくなった。


叫ぶことも、抵抗することも出来ずに、あたしは短い時間が過ぎているのを感じ取った。


瞳孔が開くぐらいに、あたしは無になった。



「何故…分かった…?」



耳元で、声がした。


顎の下を目掛けていたらしい鎌は、彼の刃によってギリギリのところで受け止められ、あたしの首を掠めていた。


声の主は、まるで空気を吐くように浅い呼吸をしている。


「…お前は怨みながら死して妖怪となった身だ。

先程の話でだいたいは掴んだ。

今お前を生かしている唯一の臓器は肺だ。

食事を取らず、鼓動も聴こえない。

だが呼吸はしている。お前がよく喋ったおかげで、肺が1つか2つか、どちら側についているか、聞き取ることが出来た」


妖怪…?


ハッとして、あたしは我に返った。


彼女妖怪なの!?

妖怪って、あの妖怪!?

江戸時代とかにチョロッと出てきた…あれ?


確かに、彼女は肩で息をするほど、呼吸はよくしていた。


それは全部、話すため。


他が無いにしろ、息を吸うにも吐くにも、肺は必要だ。


体の周りがどうなろうとも、肺だけがもし形を維持出来ているなら──酸素を送らずとも──呼吸と会話のためにその肺は役目を果たす。


彼女はあたしの真後ろに回ろうとしていた。


なら、彼女に遺されていた唯一の臓器は──左の肺。


「──みごと…そのように見抜けるとはな……さすがは──」


空気が抜けるような音がしたかと思えば、彼女の持っていた鎌が力無く落ち、地面に落ちる前に消えた。


彼女の手が降りていく──そう感じた時には、彼女は砂となっていて。


その砂すらまるで水に溶けるグラニュー糖のように跡形も、吹き飛んだような痕跡も無いまま、空気に溶けていった。


体が軽く感じたのと同時に、頬に滴が伝った。


「え?」


恐かったんじゃない。


この涙は、そういう意味じゃない。


彼女は今殺されたハズだ。


それなのに──彼女が救われたような気がして、涙が出たんだ。


☆☆☆


止まらない涙を必死に拭い、ようやく治まる頃、彼はフードを取ってこちらにやってきた。


どうやら気をつかって離れてくれていたようだ。


見ないようにわざわざ後ろを向いて、上を見上げて。


…もしくはあたしの泣き顔が酷すぎて見れなかったのかもだけど。


「…ほら」

「ふぇ?」


彼はハンカチを手にしていた。


黒地に赤と金の刺繍が入った、なんだか彼らしいハンカチだ。


あまりにも気が利く行動だったから、思わず変な声が出てしまった。


普通に優しいんだ。


「…ありがとう」


彼は目を反らして呟いた。


「お前がいてよかった」

「えっ」


ハンカチで涙を拭いながらドキッとした。


何その照れちゃうような言いぶりは!!


「ヤツは俺の心を折る方法を探っていた。

さっきの状態で使えそうな手はお前を殺すことだった。

肺の位置を確認しながら、どう隙を作ってヤツを捕らえるか…

ちょうどお前がいたから、正確に殺れた」


…つまり、あたしは護られていたんじゃなくて“使われていた”訳なんですね…?


あたしは深々とため息をついた。


涙なんか、綺麗サッパリ引っ込んだわ。


「だが、ヤツを刺したときのお前の顔は最高だった」

「…はい?」


あたしは眉間にシワが寄るのを感じた。


「あの時お前は、俺に恐怖していた。

あのまま殺しても良かった」


な…なんてことをサラッと!!


目眩がしそうだった。


彼女を刺していた時、そんなことを思っていたなんて。

あの時自分が刺されたと錯覚したのは、あながち間違いではなかったようだ。


彼の殺気に、刺されていたんだ。


「ドゥレドは俺達が斬るときに必要な反応なんだ。

機関の奴等は例外だが、お前のような単なる人間はドゥレドによって落とし、殺せる」

「ま…待って?

ドゥレドって何?」


いっくら英語が好きで単語を調べ尽くしてても、こう突然言われちゃ意味が分からない。


「恐怖のことだ。

お前は初めて会った時、始めは恐怖していた。

だから首筋に刃が通ったが、追い抜いた時には恐怖とは違うものがあった」


彼はあたしの顎を掴んで目を真っ直ぐ見つめた。


日中に比べてよく喋るけど…声のトーンは低くて、冷めていた。

「何故だ?

何故恐怖しなかった?

俺はお前の命を奪おうとしていたのに」


探るような視線にはどこか欠けているような気がした。


あたしは吸い込まれるような漆黒の瞳に、無意識に言葉を引き出されていた。


「…死にたくなかったから」


彼は眉間に薄くシワを寄せた。


「あたしは両親から生まれて、育てられて、護られたから、今まで生きてこれたの。

それを、あんな形で終わらされるのが嫌だった。

悔しかった。

絶対、生きてやろうと思った。

だから──」

「それが…お前の枷か」

「えっ……?」


彼はそっと目を落とした。


小さく呟いたその言葉に、ギュッと胸が握られたような、冷たい痛みが走った。


目が自然と見開かれる。


あたしのカセ…?

違う、あたしは…!


唇を噛んだとき、彼は眉間にギュッとシワを寄せて人差し指で唇に押し込んできた。


押しが強くて無意識に口を開き、歯と唇を引き離されると、彼は唇と唇の間に自分の指を挟めて止めてしまった。


あまりにもいきなりな動きにあたしはキョトンと彼を見上げた。


「…悪かった。

踏み込み過ぎたな。

血の臭いは好きじゃないんだ」


なんだか、その目は寂しそうな、それでいて辛そうな表情をしていて。

あたしはそっと──怒ってないことを伝えるために──彼の手を優しく退かして、短く息を吐いた後、下唇をちょっとだけ舐めた。


何かあった時、唇を噛み締めてしまうのが、どうやら自分の癖らしい。


何故だかは知らないけど。


「平気。

これ癖なの。

大丈夫」


ほんの少し微笑みかけると、彼は眉間から力を抜いた。


不思議な話だ。


人殺しをしているところは確かに見たハズなのに。


あたしは彼を恐いとは思えない。


恐いと感じても長続きしない。


それに、人を殺すような“機関”であるハズなのに、彼は優しくて、個性的で、血の臭いが嫌い。


このことが何故か、あたしの中で恐怖の対象から外れていった第一の理由なのかもしれない。


あたしを殺さないで、形はどうあれ護ってくれた。


それが余計にあたしに安心感を与えてくれたみたい。

「あの…ありがとう…竜崎…くん」

「……蓮」

「え?」


彼は不服そうに目を細めた。


「俺の名前だ。

君付けは気持ち悪い。

名字だと俺が嫌だ」


俺が嫌だ、って…


何この人俺様主義だったの!?


いやちょっとは気付いてたけど…


君付けは呼ぶ方としても多少抵抗があったから分かるけど、普通名字で呼び合うものじゃない!?


てかあたし…男子の名前を呼び捨てにしてたのは小学生ぐらいで、今呼べてるのは翼しかいないのに…!


ちゃんと呼べるの!?


目を泳がせ、肩をすぼめていると、彼はあたしの顎をまた引き上げた。


「呼べないのか?」

「よ…呼びます!!

が…頑張るから…っ!」


彼はグッとあたしを引き寄せた。


いつの間にか腕を肩に回されていた為、あたしは体制を崩して前に揺れた。



ドキッ──…



「ちょっ…」


彼はマスクを片手で上から顎の下まで下げると、その手でそっとあたしの頬に触れると、徐々に顔を近づけた。


えっ…えっ…ええ!?

これって…!


彼は少しだけ息を吸うと、そっと目を閉じた。


その間あたしは心臓が高鳴り、頭の中は思考の洪水状態だった。


今まさに、これは…この前同様“キス”というものなのでは!?


しかも今度は正式に…!?


てか、名前の呼び方の流れでキスって何さ!?


頭の中が状況説明が出来るほどスローモーションなのに、実際の彼の動きは滑るように滑らかで…


ホントならたった3秒程度のことなのだが、この心境の変化は伝え続けなければならないだろう。


そうじゃなきゃ、あたしの気持ちが晴れない。


体を強張らせているにも関わらず、彼はどんどん近づいてきた。


長い睫毛に、スラッとした鼻。


綺麗に整った眉に、シミ1つ見当たらない白い肌。


最後に目にしてしまうのは、やっぱりほのかなピンク色の薄い唇で。



ドキドキ──…



こ…こういう時って、口閉じた方がいいんだよね?


逃げても無駄だろうし、助けてもらったんだし…


ファーストキスなんて、この人には安いものなんだろうし…ね?



ドクッ──…



返事をするかのように心臓が異質な音を出した。


か…覚悟を決めろ、和泉愛菜…。


ギュッと目を瞑り、拳を握った。


開いていたくせに、手のひらにはビッタリ汗をかいていた。


戦闘の時じゃなく、今さっき急にかき出したと分かっていた。



ドキドキ──…



眉間にまで力が入り、心なしか夜なのに瞼の裏が赤く光って見える。


鼻にうっすらと生えている本当に細かいうぶ毛が、彼の熱を感じ取ってフワッと揺れた。



ドキドキドキドキ──…



そんな近くまで来ていると知って、あたしの奥歯までガチガチに固まった。


熱源がちょっとズレたかと思えば、今度は唇の真上に熱を感じた。



ドキッ──!



唇が触れるか触れないかのところで、フーッと甘い息が吹き掛けられて、あたしは思いっきりビクッと震えた。


彼の吐息は、この時間違いなく甘い匂いがした。


桃みたいな。


あたしの震えを恐怖と勘違いしたのか、彼は簡単に離れていった。


と、思えば、彼はあまりにも拍子抜けする一言を告げた。


「これでよし…」

「……へ?」


意味が分からず、あたしは目を瞬いた。


肩にも腕にも力が入ったまま、あたしは拍子抜けして動けなかった。


「お前は俺を『蓮』としか呼べなくなった。

いくら呼び方を考えていても、『蓮』以外の名前は出てこないだろう」


な…なんだそれ!?


「ちょっと待って!

今蓮は──!?」


“あなた”と口にしたつもりが、勝手に“蓮”と紡がれてしまった。


あたしは自分の口に手を伸ばして目を丸くした。


何これ…どういう技!?


口吹(こうすい)の術だ。

口に息を吹き込むことで自分のOKワードとNGワードを刷り込むことが出来る。

NGワードは全てOKワードに変換される。

例え頭の中には残っていてもな。

前にも似たような術を使ったろ?

布越しだったが」


前にも…布越し…。


あのファーストキスのことですか。


なんだか変に体がダルくなった。


「あれは口吸(こうきゅう)の術。

文字通り吸うことで相手の消したい記憶を吸い獲ることが出来る。

これは口吹とは違って直接は難しい。

だからマスクは取らなかった」


彼の瞳がなんだかランランとしていて、あたしはため息をつきたくなったけど我慢した。


何さっきのあたしのドキドキは。


…彼にときめいてた訳では無いんだけど…。


あたしのこのやるせない気持ちはどこにぶつければいいのよ!


我慢は虚しく、予想以上に溜め込んだ空気を一気に放出した。


そしたら体もどんどん沈んできて、だいぶ下がってしまった。


「…どうした?」


彼はしてやった時のトーンとはかけ離れたキョトンとした声で上から覗いてきた。


怒りのボルテージが徐々に上がっていく。


人を傷つけといて、これは無いだろう!!


この人には、ちゃんと言わないと分からないんだ!



「人を弄ぶのもいい加減にしなさいよ!?

あたしだって…傷付くんだからね!」


強く言ってるつもりが声は震えていて、あまり意味が無い。


彼は少しだけ目を丸くした。


「怒ってるのか?」


「い…一応…?」


頬を膨らますも、結局ボルテージが急降下していって形が作れなかった。


むしろ、怒りよりもショックのボルテージが上がっていく。


あれ?

あたしホントに傷付いてる?


「…ファーストキス…だったんだから…」


一番言いたかったことをボソッと告げるも、彼は小さく首を傾げてあたしの顔を自分の前に誘導した。


眉間にシワを寄せ、深刻そうに呟く。


「なんて言った?」


まさか、聞こえてなかったの?


こんなに拗ねた言い方してる自分がもっと恥ずかしい…。


彼にとっては、ただ術を使うためだったんだもんね…。


変にドキドキしてるあたしが悪い。


てか、ドキドキするなぁ!


あたしのタイプじゃない!!


あたしは平静を装って、彼を見た。


「──別に…てか、あたし頑張るって言ったのに信用されなかったわけね…

しかも代名詞すら使わせてもらえないと?」


それでも、後悔が渦巻いていた。


どうして、こんなにショックを受けるのか。


されたかった訳じゃないのに。


どうして──抵抗しなかったのか。


「キラ等と呼ばれては困るからな。

人の口は滑りやすい」

「じゃあその…名前は何なの?」


もはや蓮と呼びたくなくて、言葉を濁した。


「コールネームだ。

機関の中での…な。

お互いを信じ合う訳にはいかない。

名前を明かすだけで命取りになる。

だから呼び名をつけた」


「じゃあ…“竜崎蓮”は本当の名前じゃ無いの?」


あ、フルネームは呼べた。


これは名前として使ってないからかな?


モノみたいな感じで、主語に使わないなら、呼べるのかも。


あたしが顔を上げると、彼は瞳をほんのわずかに反らした。


あ、図星だ。


こんな公に名前を公開していたら死へのカウントダウンが始まっているだろう。


もしその機関が本当にヤバいところなら。


新人モデルどころの話じゃなくなる。


「…ああ。

でも、この名前は気に入っている。

だから、お前にはどうしても名前で呼んでもらいたかった」


また瞳を合わせた時には、何かを背負ったような、弱々しい色をしていた。


彼はよく分からない。コロコロ変わるし、かと思えば優しいし、でも強いし殺し屋っぽいし…。


でも、危険じゃない。


それはよく理解出来た。


感情表現が出来てない、ちょっと普通と違う男の子なんだ。


「まー…いいや!」


あたしは顔を上げた。


なんだか吹っ切れて、他のことなんかどうでもよくなって、自然といつもの笑顔になった。


開き直りはあたしの特徴のような気がした。



「また最初から!!

さっきは助けてくれてありがとう。

自己紹介がまだだったよね?

あたしは和泉愛菜!

よろしくっ♪」


あたしは彼の前に手を差し出した。


さっきまでツンツンだったから突然のトーンに彼も目を丸くしていたが、フッと小さく鼻で笑ってその手を優しく握った。


まるですぐ崩れそうな物を包むように。


そんな彼の手は、案外温かくて、柔らかかった。


「よろしく」


恐らく、あたしの自己紹介はクラスメイト最後の1人だったと思う。


それでも、一番に話して、最後に自己紹介をしたんだから、それはそれでいいんだ。


彼の記憶にも、あたしの記憶にも、きっと残り続けてくれるから。


本当は機関って何?とか、そのマントの秘密とか、聞きたいことはたくさんあったけど、めんどくさくなったからヤメにした。


彼に殺されないなら、いつだって聞けると思ったから。


助けてもらって、たくさん会話して…それだけで満足だったから。


でも、明日があるなんて、簡単に思ってはいけなかった。


もう、それは刻々と始まっていたんだ。

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