クラスの氷の美少女を推しVTuberだと勘違いしたら、なぜか懐かれました
五月晴れの午後。窓から差し込む陽光は、県立鳳誠学園の2年B組を穏やかに照らしていた。
だが、その平穏な空気の中で、神代 響だけは別世界にいた。
響は、クラスの中でも「背景」に近い存在だ。少し長めの黒髪を無造作に流し、どこか眠たげな細い瞳。クラスメイトとの交流は最小限で、休み時間は常に机で何かを凝視している。教師からも「大人しい生徒」として認識されている彼だが、その実態は、音の粒子を解析する「求道者」であった。
彼は今、机の下で隠したスマートフォンの画面を、魂を削るような集中力で見つめていた。
(……ああ。今日も絶叫ちゃんは、世界で一番美しく肉を切り裂いている)
画面の中で狂ったように笑い、錆びついたチェンソーを振り回しているのは、最推しのVTuber、チェーンソー・リッパー・絶叫ちゃん。
ボロボロの拘束衣を纏い、ホラー映画の殺人鬼を彷彿とさせるマスクを被った彼女は、まさに「狂気とバイオレンス」の象徴だった。
彼女の売りは、理不尽なまでの「叫び」と「エンジン音」だ。
ゲームで獲物を逃せば、鼓膜を物理的に削るような金属質の絶叫を上げ、リスナーが少しでも生意気なコメントをすれば「明日の朝には、お前の住所を解体してやる!」と、喉をズタズタに引き裂くような掠れ声で毒づく。
その、チェンソーの刃が骨に当たる音をそのまま喉から出しているような、中毒性のある「汚い悲鳴」こそが、響にとっての聖歌だった。
(この、120デシベルを超える暴力的なまでの高周波……。フォルマント分析によれば、彼女の喉は奇跡的な倍音構造を持っている。ああ、生で聞きたい。その、臓物をぶちまけるような絶叫を、この鼓膜に直接叩き込まれたい……!)
そんな響の「脳内参拝」を遮ったのは、教室を包む、あまりにも対照的な静寂だった。
ふわり、と冷涼な空気が流れる。
クラスの視線が、自然と一点に集中した。
窓際の席に座る、学園の最高傑作。白銀 玲華。
月光を糸にして織り上げたような、透き通るような銀髪。抜けるように白い肌に、意志の強さを感じさせる切れ長な黒い瞳。彼女がそこに座っているだけで、周囲の温度が3度下がるような錯覚を覚える。
彼女は、誰とも喋らない。
これまで入学以来、一度もクラスの男子とまともに会話したことすらない。休み時間は常に静かに本を読み、教師の問いかけには最小限の会釈で答える。その徹底した「拒絶」と「高潔」さは、彼女を「氷の君」という神域に押し上げていた。
……だが、現実はあまりにも残酷である。
(……やばいやばいやばい。視線を感じる。また誰か私を見てる。心臓がマフラーの壊れた原付みたいにうるさい。どうしよう、顔が赤いかも。下を向かなきゃ。本、本を読きゃ……! あああ、文字が滑って全く頭に入ってこない……!)
そう。白銀玲華という少女の正体は、高潔な美少女などではなく、末期の対人恐怖症を患う、重度のコミュ障であった。
彼女が喋らないのは、緊張で声が裏返るのが怖いから。
彼女が本を読むのは、他者と目を合わせるのが死ぬほど恐ろしいから。
彼女の「氷」の正体は、単なる「極度のビビリ」が作った防壁に過ぎなかった。
そんな、これまで一度も接点のなかった二人の運命が、一本のイチゴオレによって激突する。
玲華は、喉の渇きを潤そうと、パックのイチゴオレを慎重に口に含んだ。
だが、その瞬間、背後の男子生徒たちが上げた大きな笑い声に、彼女の脆弱な精神が過剰反応した。
(ひっ……!? 今、私のこと笑ったの!? 飲み方がおかしかった!?)
動揺。そして、不運な誤嚥。
イチゴオレが、あろうことか彼女の気管へと迷い込んだ。
肺が、異物を排出しようと激しく収縮する。
だが、玲華は「ここで盛大に咳き込んだら目立ってしまう。一回も喋ったことない不気味な女が、いきなり爆音で咳き込むなんて……絶対無理!」という強迫観念から、必死に喉を締め上げ、音を殺そうと試みた。
結果、彼女の喉から、物理法則を無視したような音が漏れ出した。
「……グ、……ギガガァッ……!!」
その瞬間、響の脳内に、火花が散った。
(……なっ!?)
響の身体が、スプリングを仕込まれた人形のように跳ねた。
今、聞こえた。
静寂な教室に響いた、あの、肺から搾り出されるような、極薄の、それでいて凶暴な金属音。
それは、響が昨夜、三回、いや三千回はリピート再生した伝説のアーカイブ――
『絶叫ちゃん、チェンソーの紐が引けなくて10分間キレ続ける回』の、04分44秒に放たれた、エンジンが掛かりそうで掛からない時の断末魔と、周波数が完全に一致していた。
(今のフォルマント……。喉の締め方、粘膜の震え、そして最後の余韻……。嘘だろ、88.888Hz……。そんな馬鹿な。ありえない)
響はゆっくりと、機械仕掛けのように玲華の方を向いた。
玲華は、顔を耳まで真っ赤にし、口元を両手で抑えてガタガタと震えている。
彼女の瞳には、涙が滲んでいた。
(……そうか。そうだったのか!)
響の中で、パズルのピースが「ガチッ」と音を立てて組み合わさった。
(白銀玲華が、チェーンソー・リッパー・絶叫ちゃん……! ああ、なんという盲点だ! 学校では『静寂』を演じることで、酷使した声帯を休ませているのか。アバターの禍々しい赤髪とは真逆の、この清楚な銀髪……! 正体を悟らせないための完璧なカウンター・ブランディング、逆偽装か! 完璧だ……なんて完璧なステルス性能なんだ、絶叫ちゃん!!)
実際、玲華は「変な声出しちゃったあああああ!! 死にたい!! 今すぐこのイチゴオレの海に沈んで一生を終えたい!!」と絶望していたのだが、響の耳には、それが「身バレを悟られた焦り」に変換されていた。
(絶叫ちゃんは今、俺に『正体』をバラされたと思って恐怖している……! 違う、違うんだ絶叫ちゃん! 俺はアンチじゃない! 俺は君の、君の解体を誰よりも理解する『死体』なんだ!!)
響は無意識のうちに立ち上がっていた。
これまでクラスの誰とも関わらず、ただの影として生きてきた男が、初めて自らの意志で動いた。
一歩。二歩。
教室中の視線が、その「異変」に釘付けになる。あの地味な神代が、よりによって「氷の君」に近づいている。
響は、彼女の目の前でぴたりと止まり、その切れ長な瞳で、玲華を射抜くように凝視した。
(……美しい。至近距離で見れば見るほど、彼女の首筋のラインは、あのチェンソー音を出すための強靭な筋肉を隠しているように見える。この可憐な唇から、あの『バラバラにしてやるよぉ!』という罵声が放たれているのか……! 尊い。尊すぎて、意識が溶けそうだ!)
「白銀さん」
人生で初めて、彼女を呼ぶ。その声は、自分でも驚くほど低く、重かった。
玲華は、「ひっ」と短い悲鳴を喉の奥で飲み込んだ。
(……きた!! 不気味な人がきた!! 何!? 何々この人!? 目が怖い! 一度も喋ったことないのに、なんでそんな『全てを知ってます』みたいな顔で私を見てるの!? もしかして……私を罵りに来たの!?)
「……昨日の、『第三屠殺場ステージ』。……最高でした」
(……伝われ。俺は、君の『殺戮(活動)』を全肯定しているぞ、と!)
玲華の思考が、完全にショートした。
(……だいさんとさつじょう、すてーじ? なにそれ……。昨日の夜、台所で生肉を切るのをお母さんに手伝わされたこと? なんでそれをこの人が知ってるの!? ストーカー!? それとも、本物の殺人鬼!? 怖い、この人、死ぬほど怖い!!)
「ひゃっ……!? ……ぁ、……あ……」
玲華は、何かを言い返そうとしたが、あまりのパニックに声が出ない。
ただ、喉から「あ、あ……」と、絶叫ちゃんが獲物を追い詰める時に見せる、独特の低周波だけが漏れ出した。
(……間違いない! 本人だ! 今の『あ』の発声、間違いなくリッパーの呼吸法だ!!)
確信が、狂気へと変わる。
響は、カバンから一通の封筒を取り出した。
それは、彼が昨夜、絶叫ちゃんへのファンレターとして書き綴った、「彼女の喉をいたわるための十か条」と、なぜか「小型チェンソーのメンテナンス図解」が記された便箋だった。
「これ。……あなたの、……喉に、いいかと思って。役立ててください。……道具の手入れについても書いてあります」
(……まずは喉のケアだ。プロの殺人鬼(演者)にとって、喉は命。そして武器の手入れも重要だ。俺が彼女の『共犯者』にならなくては!)
玲華は、震える手で封筒を受け取った。
中を少しだけ覗くと、そこには「加湿器の重要性」という文字の横に、「チェーンソーの刃の研ぎ方」「血液を落すための洗剤一覧」「死角からのアプローチ」といった、執念に近い文字がびっしりと書き込まれていた。
(……ひいいいいっ!! 『喉をいたわれ』!? これ、暗に『叫んでも誰も助けに来ないようにしてやる』って言ってるのよね!? チェンソーの研ぎ方って……『これで私を切り刻む』っていう予告よね!? 死角からのアプローチって……逃げられないってことよね!?)
玲華の瞳に、ついに涙が溢れた。
そこに、教室内で唯一この状況に割って入れる「異分子」が舞い降りる。
「え、ちょ、神代くん!? 何、玲華と喋ってんの!? 超レアじゃん!!」
ガムを噛み、ジャラジャラとアクセサリーを鳴らしながら現れたのは、クラスの太陽、吉岡 陽葵だった。
彼女は、クラスの誰とでも友達になれるギャル。そして、唯一玲華の「コミュ障」を「可愛い個性」として受け入れている、彼女の親友である。
「あはは……神代くん、玲華のこと泣かすとかやるじゃん! ってか、何その封筒? 重くない?」
陽葵は、響が玲華に「告白」でもしているのだと勘違いしていた。
「吉岡さん。……白銀さんは今、とても大切な時期なんです。今夜の『解体』を控えて、彼女は戦っている。俺はそれを、全力で支援したいだけだ」
「は? 解体? 大掃除? 意味わかんないけど、神代くん、意外とグイグイ行くタイプなんだねー!」
陽葵は、玲華の肩をバシバシ叩く。
玲華はもはや、返事をする気力もなく、ただただ封筒を抱きしめて震えていた。
(……解体。今夜、私が解体されるんだ……。さようなら、お父さん、お母さん……)
響は、そんな絶望の表情を浮かべる玲華を見て、胸を熱くしていた。
(……見てくれ、あの決意に満ちた表情! 恐怖を乗り越え、今夜の配信でさらなる『絶叫』を届けようとする、真の表現者の顔だ……!)
「白銀さん。……俺、正座して待機してますから。……あなたが『バラバラ』にする瞬間まで、見届けます」
「……ひ、ひぃぃぃ……っ!!」
玲華は、ついにその場に泣き崩れた。
彼女の脳内では今、「神代 響による、バラバラ殺人予告」が正式に採択されていた。
「神代くん、今のセリフ、プロポーズ並みに重いよ! 超ウケるー!」
その日の放課後。
玲華は、逃げるように校門へと急いでいた。
だが、その背後に、まるで影のように付き従う男がいた。
「白銀さん」
「ひっ……!? ……な、なん、……で……」
(……つけてくる! やっぱり逃がさないつもりなんだ! 私の家を特定して、夜にチェンソーで……!)
「……いえ。あんたは今、喉を痛めている。……この先、車通りが多いから、排気ガスが喉に悪い。……これ、使ってください」
響は、無造作に「高機能の医療用マスク」を差し出した。
「…………え?」
玲華は、足を止めた。
差し出されたマスクを受け取ろうとして、指が触れ合う。
響の手は、驚くほど温かかった。そして、少しだけ震えていた。
(……あ。この人、……もしかして、私と同じ? ……緊張してる?)
玲華は、響の目を見た。
鋭いと思っていたその瞳は、今はただ、必死に何かを伝えようとする熱に浮かされているように見えた。
そこにあるのは「殺意」ではなく、もっと別の……何か狂信的で、それでいて純粋な、圧倒的な「肯定」だった。
(この人……私の『変な声』を聞いて、笑わなかった。それどころか、……あんなに必死に、喉のケア用品を……。……どうして?)
玲華の心の中に、初めて「恐怖」とは違う感情が芽生える。
「自分を否定しない人」への、微かな好奇心。
「……ぁ、……ありが……と……」
玲華は、一生に一度の勇気を振り絞り、掠れた声で礼を言った。
その瞬間、響の心臓が爆発した。
(……キ、キタァァァァァァ!!! 絶叫ちゃんの、配信終了間際に見せる、あの消え入りそうな『お疲れ様』のトーンだ!! 本物だ! 本物が、俺に向かって、……デレた!!)
「……いえ。……俺こそ。……あなたの『声』が聞けて、救われました」
響は、深く頭を下げ、逃げるように反対方向へ走り去った。
その背中は、どこか喜びで跳ねているように見えた。
玲華は、手元に残されたマスクと、茶封筒を見つめた。
相変わらず内容は猟奇的だが、不思議と、胸の奥が少しだけ温かい。
(……変な人。……すごく変な人だけど……。……明日も、……学校に行っても、いいかな)
彼女は、不器用な手つきでマスクを装着した。
神代響の脳内では「暗殺予告」が「公式オフ会」へと変換され、白銀玲華の脳内では「死刑宣告」が「謎の支援者」へと書き換えられつつあった。
世界一噛み合わない二人の、けれど確実な「歩み寄り」。
その勘違いが解ける日は、まだ、遠い。
────完




