第十話 航海、先立つ物あり
「名乗りがまだだったな。俺はラウト、船長をやっている。船長と呼んでくれればそれでいい。」
空気は一気に和やかになり、船長も打ち解けた表情で話を続ける。
「具体的な費用だが、支度金、前金合わせて金貨200枚は必要だ。成功報酬は別途金貨400枚。占めて金貨600枚だな。」
金貨は2枚あれば、普通の家族なら1年は飢えずに暮らせるほどの大金だ。それが600枚ともなれば、おいそれと出せる金額ではない。
ソフィアはクロードを呼び寄せると、何かを耳打ちした。
クロードは黙って頷き、一礼をしてから船長に向き直り口を開いた。
「前金、支度金は200枚お支払いいたしましょう。しかし、成功報酬は金貨ではなく、物品での支払いとさせて頂きたい。」
「物にもよるな。食い物を小屋いっぱい渡されても、一月後には腐っちまうだろうしな。」
「ご安心ください。少なくとも、扱いには困らないものです。報酬として受け取った暁には、好きに扱ってください。」
クロードはアーノンとルカに命じ、外に控えていた馬車から一本の樽を運び込ませた。
船長と男たちは樽をのぞき込む。中には何も入っていない。いや、よく見れば、樽の底に白い石が敷き詰められていた。
船長はその一つを拾い上げてまじまじと見つめる。
小さなでこぼこが無数に空いた石は決して美しいとは言えず、宝石を期待した船長はあからさまに不貞腐れる。
「なんだいこりゃあ、ただの石ころじゃあないか。こんなもの銅貨一枚にもならんぞ?」
「その樽の中に泥水でも塩水でも入れれば、一刻ほどで真水に変わります。あなたが今、手に持っている魔道具の力で。」
石のような魔道具をぞんざいに扱おうとする船長にくぎを刺すよう、クロードははっきりと言う。
船長は一瞬、思考が追い付かずに固まったが、はっとすると、声を張り上げた。
「おい!今すぐ海水を汲んで来い!!樽いっぱいだ!!」
男たちは大汗をかきながら海から海水を汲んで持ってきた。
樽の中には海水が並々と注がれる。樽の底に沈んだ石のような魔道具からは、しゅわしゅわと泡が絶えず噴き出している。
船長とその取り巻きは、瞬きも忘れ、樽の中の様子を見守っていた。
だんだんと魔道具から排出される泡の量が減り、ついには泡が排出されなくなったところで。船長が樽の水をコップですくい、飲んだ。
「……なんてこった。」
あっけにとられる船長を尻目に、周りの男たちも次々と樽の中の水を飲み下す。全員が信じられないものを見るように、樽の水を見つめていた。
外洋の航行で問題となるのは、食事だけではない。飲み水にも困難が付きまとう。
樽に入れた水は、7日もすれば腐ってしまうし、無理に飲めば腹を下し、かえって水分を失う。
海水を煮出しても、飲み水としてとれるのはごくわずかだ。
結果、船員は酒で水分を補うことになる。なるべく酒精の弱いものをそろえているが、それでも酒は判断力を低下させ、陸に戻ってしばらくしても手足の震えが収まらない者もいる。
しかし、これがあれば外洋航海の常識が変わる。
船長は体を震わせる。これは決して酒による震えではなかった。
クロードは船長の肩に手を置いて語りかける。
「新大陸に到着するまでは、我々もこの魔道具を使用させていただきます。新大陸に到着した後は、好きにご活用ください。」
船長は、力のない笑顔をクロードに返す。
様々な打算が、思惑が、未来への展望が、船長を心地よく疲弊させていた。
それは、他の取り巻きの男たちも同様だった。
「―――交渉は成立だ。前金として金貨200枚。成功報酬はこの魔道具だ」
再び席に着いた船長にクロードは満足そうな笑顔を向けた。
「良い取引になったと存じます。」
羊皮紙の契約書をくるくると束ねる。
「では、金貨は後日届けさせます。本日はこれにて……」
「おいおい、ちょっと待て」
話を切り上げようとするクロードを船長が差し止めた。
「まだ何かおありですかな?」
船長は、少し意外そうな、驚いているような、そんな顔をする。
「何って……お前たち、まだ食べていないじゃないか。」
ソフィアの従者たちには、主が食したものと同じ塊が差し出された。
後悔先に立たず。この日、クロードは、ソフィアに忠誠を誓ったことを生まれて初めて後悔した。




